津波だけでもダメージが大きいのに、福島の海は原発事故で大きな痛手を負った。漁協が沿岸漁業を自粛するなど、釣りどころではなくなったのだ。
「私も店を休んで瓦礫処理に関わるなどしました。店ではルアーを販売していたのですが、これには流行があります。何年も休んでいるうちに流行が変わってしまい、仕入れた品物は売れなくなってしまいました。このため店は事務所として使い、今では主に釣り船を動かしています」と話す。
「それでもここで生きていくしかない」
漁協は操業自粛の後、試験操業から本格操業の移行期間へと漁を復活させてきた。土屋さんも、これに歩調を合わせるようにして、海で生きるための道を模索してきたのである。
ただ、その釣り船も原発次第では先行きが不透明だ。
「東京電力は事故を起こした原発の冷却に使った汚染処理水を海洋放流する方針です。そうなったら、またどうなることか」と不安は尽きない。
「そもそも原発が爆発した時、なんで福島なんかに住んでいるんだと言われました。でも、移動するお金はありません。知らない土地でも暮らせない。そうして踏ん張ってきたのに、さらに地震が何度も続き、これでは二重苦、三重苦を抱えているようなものでしょう。それでもここで生きていくしかないのです」と土屋さんは言う。
これまで耐えてきた自宅が……
近くを歩いてみた。
石垣が崩落している家が結構ある。ブロック塀はほうぼうで倒れていた。屋根瓦はほとんどの家で落ちていて、道路や溝に散乱している箇所もあった。道路は陥没しているかと思うと、マンホールが頭を持ち上げている。アスファルトには深いヒビが入り、浮き上がったり、破損したりした場所もあった。
松川浦の護岸が潟湖側にずり落ちて、ガードレールごと斜めになった道路標識が見える。完全に潰れてしまった事業所もあり、無残な姿をさらしていた。
瓦がほとんど落ちている家があった。漁師の木村敏美さん(71)宅だ。
二男の会社員、雅弘さん(39)が家の中を案内してくれた。雅弘さんは婿に行き、相馬市内でも別の場所に住んでいる。この日は片づけの手伝いに来ていた。
「11年前の津波では、敷地のぎりぎりまで浸水しましたが、なんとか助かりました。1年前の地震でもそこまでのダメージはありませんでした。でも、今回はボロボロです。1階のサッシはガラスの半分が割れました。雨が降るというので、ブルーシートを外から釘で打ちつけて降り込まないようにしたのですが、瓦が落ちた屋根から雨漏りがしてしまって……」