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財界主導で新会社「広島カープ」誕生

 1956年1月、新会社である「株式会社広島カープ」が発足する。出資したのは県内主要企業13社。中心となったのは「二葉会」と呼ばれた広島財界有力者の親睦組織であり、主導的役割を果たしたリーダーの1人が当時の東洋工業社長、松田恒次だった。

 大阪市立工業学校(現在の大阪市立都島工業高校)時代から、恒次は大の野球好きだったが、1949年9月以降広島で新球団立ち上げの動きが本格化した当時、恒次は東洋工業の経営から一時的に身を引いていて、カープ球団設立に関与できなかった。

 恒次は1950年7月、3年ぶりに取締役として東洋工業に復帰し、2カ月後の9月には専務取締役、さらに翌1951年12月には父・重次郎に代わって社長に就任する。戦後、恒次が先頭に立っていち早く生産を再開した三輪トラックは急ピッチで売り上げを伸ばし、昭和30年代を迎える頃には四輪トラックや乗用車への進出をうかがっていた。

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「私が、東洋工業の社長室に松田さんを初めてお訪ねしたのは、昭和25年の初夏のころであった」と鈴木龍二は恒次の追想録に「思い出の記」を寄せている。おそらく、恒次が取締役に復帰した直後のことと思われるが、訪問の理由は鈴木自身の回顧録の方に詳しく述べられている。きっかけは、発足早々から台所が火の車だったカープ球団が苦肉の策で始めた「樽募金」だった。

「広島は当初市内の中心街からは離れた観音球場(現在の広島県総合グランド野球場)で試合をしていた。その球場の入口に四斗樽(1斗は約18リットル)を置いて、ファンの喜捨を募っている。球団の苦労は分かるにしても、プロ野球としてあまりにみっともない。そこで河口(豪)代表の紹介で、初めて東洋工業の故・松田恒次社長に会った」

 鈴木によると、カープへの援助を要請したところ、恒次は「よろしい援助しましょう」と快諾したが、その際に条件をつけた。

「但し広島市民として援助する。絶対に名前を出してもらっては困る」

 カープは戦後の広島にとって、復興への希望の象徴であり、広島県民のもの、市民のもの、ということを恒次は強く意識していた。一経営者、一企業が専有することは決して受け入れられないということだった。

 結局「広島が強くなるためには二軍の養成が必要だ。一軍ではなく二軍の養成費を出しましょう」という方向に話が進んだ。

 草創期のカープ二軍は一軍以上に待遇が劣悪で、球団発足まもない1950年6月には経費節減策として二軍の活動は事実上休止され、前述のように9月には解散に追い込まれている。

 カープ二軍が活動を再開するのは1953年。翌1954年からは当時のセ・リーグ6球団のファーム(下部組織)が集まって組織した独立リーグ「新日本リーグ」に「広島グリーンズ」として参加することになった。

 広島県呉市の二河野球場を本拠地とする、このグリーンズ(1956~58年は「広島カープグリナーズ」に名称変更)の活動・育成費を東洋工業が拠出していた。金額は年間300万円。草創期の球団代表を務めた河口豪は「実のところこの300万円が苦しいカープにとっては干天に慈雨で、全体の選手給与のやり繰りに利用されたものである。いま一軍に名をなす何人かはこの給与のおかげといってよい」と吐露している(『カープ風雪十一年』)。

 恒次は折に触れ「私はプロ野球選手を理性と教養と常識を備えた“人間”として立派な選手に育てたい」と力説していた。要するに「人を育てる」ことを常に球団経営の根幹に置いていたのだ。恒次がファームの援助に乗り出して以降、二軍で人間教育をみっちり行うのがカープの伝統になった。

 新会社として再出発した1956年以降、地元経済界は積極的にカープを支援するようになる。新会社2年目のスタートになる1957年1月には、旧来の観音球場に代わる夜間照明付き新球場の建設費用として1億6000万円を経済界が広島市に寄付。

 それを受け、2月に着工した「広島市民球場」が7月に完成した。翌年の内野スタンド増設工事分も含め、新球場の整備費用総額2億6500万円のうち、9割超の2億5000万円を「二葉会」はじめ地元企業が拠出したことになる。

広島市民球場 ©文藝春秋

 この間、球団と経済界の橋渡し役になったのは恒次と広島電鉄社長だった伊藤信之(1898~1984年)である。伊藤は、広島野球俱楽部創立準備委員会の理事長を務めるなど球団創設に深く関わり、「株式会社広島カープ」では、伊藤が社長、恒次が取締役を務めていた。

 財界肝煎りの新会社に対する期待は大きく、ナイター設備の整った広島市民球場の完成後、観客増の恩恵も少なからずあった。しかし、業績が劇的に好転することはなかった。やはり複数企業の共同出資で寄り合い所帯の球団経営では限界があった。