「東洋」が加わった理由
「昭和37年(1962年)の暮れ、私は上京中に電話で『(球団の)社長を引き受けろ』と交渉を受けた」と恒次は自伝に記している。
東洋工業は1958年にキャブオーバートラック「ロンパー」で四輪車市場に本格進出し、1960年には初の乗用車「R360クーペ」を発売。国内のモータリゼーションの波に乗りつつあった。一方、路面電車やバスを主力とする広島電鉄の業績は自家用車の普及に伴い、下り坂となるのは不可避と見られていた。
ただ、ファームの支援を決めた時のように、球団を私有すると見られることは絶対に避けたい。伊藤との社長交代は受け入れても、東洋工業単独の支援には踏み切れなかった。
当時の複雑な心境を恒次はこう振り返っている。
「とにかくカープは残さなければ……との一念から私は(球団社長就任を)受諾した。同時に引き受ける以上、責任を持ってやり抜こうと決意した。むろん、私としては、球団を私しようなどとは毛頭考えていない。私は広島市民の球団であるカープに、限りない誇りを持っているし、これだけ郷土ファンの心の底に深く根を張った球団を、枯らしてしまうことはなんとしてもできない」
1962年11月、恒次は「株式会社広島カープ」の社長に就任した。
しかし、その後もカープは低迷が続く。1963~67年の5シーズン、カープは相変わらずBクラスに沈んだままで、とりわけ1967年は首位から37ゲーム、5位からでさえ11ゲームも引き離されての最下位だった。責任を重く感じた恒次は社長辞任の意思を固めるが、球団の全役員を含む地元関係者から強く慰留されて思い直し、逆に最後の手段として、東洋工業単独支援の体制に移管することを決意する。
恒次は社長に留任し、1967年11月に社名を「株式会社広島東洋カープ」に改めた。球団経営の全責任を自ら負うことを明示したのだ。恒次はそれでも社名に「東洋」を入れることに抵抗があったが、球団への支援金を広告・宣伝費として税務処理するために必要と指摘され、やむなく応じた。
それから半世紀余りが経過した。社名(球団名)は当時から変わっていない。東洋工業は1984年に「マツダ」に社名変更し、すでに40年近くになる。若いファンの中にはなぜ「東洋」という文字が球団名に入っているのか、知らない層も少なくない。
マツダは現在も広島東洋カープの大株主(保有株数2万2600株、発行済み株式に占める保有率は推計34・2%)だが、有価証券報告書では「全体として連結財務諸表に重要な影響を及ぼしていない」ため持分法適用対象会社とはしていない。カープとマツダを結びつけるものは、2009年に完成した新・広島市民球場のネーミング・ライツ(命名権)をマツダが取得している以外は、創業一族の松田家の存在しかない。
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