その後「後援会」会員は3万6000人にまで増え、年間720万円の収入をもたらした。さらに、世間をアッと言わせたのが「トレードマネー募金」である。1953年の開幕前、前述した“赤嶺旋風”の一環で松竹ロビンスから小鶴、金山、三村の3選手を獲得する際に移籍金1000万円が必要とされた。
カープの台所事情ではとても賄えない大金だったが、「2万人の会員が500円ずつ出せばよい」と石本と後援会が募金集めを提案したところ、募金活動は大いに盛り上がり、めでたく3選手を獲得できた。集まった金額は4月末までに1000万円を超えた。
初代監督・石本をめぐるウワサ
だが、こうした手法は必ずしも経営の安定化には結びつかなかった。後援会の資金力の増大とともに創設発案者である石本の発言力が増し、決して彼の本意ではなかったが、球団の資金繰りに深く関与し、実質的な経営トップの役割を負わされるようになっていく。
一方、後援会の一部の役員が球団経営や監督采配などに口を出すようになり、石本との対立が先鋭化する。石本の出身校である県立広島商業高とライバル校の私立広陵高の出身者との「学閥争い」が背景にあるともいわれた。
石本が最も腹に据えかねたのは1952年に起きたエース投手、長谷川良平(1930~2006年)を巡るトレード騒動でのことだった。
「名古屋ドラゴンズ」が地元出身(愛知県半田市生まれ)の長谷川の獲得を目論んだものの、話はまとまらなかった。ところが、当時「移籍金50万円をカープに支払えばトレードを認める」との条件が提示され、石本がその50万円を受け取ったとのウワサが流されたのである。
ウワサを真に受けた後援会は鬼の首を取ったように石本批判をエスカレートさせた。やむなく石本は1953年5月に監督の座を広陵高出身の白石勝巳(1918~2000年)に譲り、以後は総監督兼常務取締役として球団経営に携わることになったが、それでも後援会の批判は止まない。
堪忍袋の緒が切れた石本は同年8月8日、「50万円受領説」を再三流していた後援会幹部を告訴するとともに、当時のコミッショナー、福井盛太(1885~1965年)に真相究明を依頼。元検事総長(在任1946~50年)の福井は8月20日、名古屋球団からそのようなお金が出た形跡がないと調査結果を公表した。潔白は証明されたものの、石本は8月末に辞表を提出。球団は草創期の功労者を守れず、感情的なしこりも残った。
球団経営はその後も安定を欠き、1955年末には負債が約5600万円にまで膨らんだ(『VI記念 広島東洋カープ球団史』)。石本辞任騒動が象徴するように、支援金頼みの経営が続いた結果、後援会幹部の発言力が抑え切れないほど強くなり、球団運営に歪みが生じるようになっていた。
球団発足から5年。一連の問題解決のため「株式会社広島野球俱楽部」を清算・解散し、地元経済界の出資による新会社で再出発することが決まった。