貧乏すぎて、二軍選手は全員解雇
赤嶺は毀誉褒貶の激しい球界人だったが、カープの生みの親の1人であることは紛れもない事実である。「広島にプロ野球球団を」という流れは、前述のように赤嶺個人の「野望」から発したものだったかもしれないが、それでも、新球団としてセ・リーグへの申請第1号という素早さで加盟を勝ち取れたのは、赤嶺から山口、そして谷川へ流れた情報の早さと正確さの賜物といえる。
2リーグ分裂の年に球界に参入した「広島カープ」は初年度の1950年のシーズンは41勝96敗1分け、勝率2割9分9厘で最下位(8位)に終わる。勝率3割に届かない戦績もさることながら、より深刻だったのは球団経営だった。
親会社を持たない市民球団であり、経営主体として設立予定の株式会社広島野球俱楽部の資本金2500万円(1株50円、発行数50万株)は広島県・市をはじめとする県下の自治体からの出資金で大半を賄うことになっていた。
ところが、各自治体の年度予算に組み込まれてはいても、執行の時期はまちまちで、財源の都合で資金拠出が数カ月遅れになることも珍しくなかった。例えば、広島野球俱楽部の出資期限は4月20日だったが、その時点で払い込まれたのは13万株、金額にして650万円に過ぎなかった。
財務の問題だけではない。広島野球俱楽部の社長は、県議会副議長だった檜山袖四郎(1899~1979年)が兼務していた。株主はお役所、経営者は政治家では、会社の運営がスムーズに行くはずもない。
5月には選手への給与の遅配が始まり、6月25日にはセントラル野球連盟から「月末までに加盟金及び分担金300万円を支払わないときは加盟権を取り消す」との通達が届いた。自治体からの出資金払い込みにメドがつき、ようやく広島野球俱楽部の創立総会が開かれたのは9月3日、登記の完了が同15日である。
だが、その後も球団の資金繰りは一向に好転しなかった。セ・リーグへの加盟金・分担金については100万円を払い込んだだけで、それ以上は連盟側も打つ手がなく、やがてうやむやになったが、選手への給与の支払いはそんなわけにはいかない。9月には資金が底をつき、二軍選手の全員解雇を余儀なくされる。
球団創立2年目となる1951年の年明け早々、セ・リーグでは福岡市に本拠を置いていた「西日本パイレーツ」がパ・リーグの「西鉄クリッパース」と合併。新球団「西鉄ライオンズ」はパ・リーグに加盟することが決まった。加盟球団が1つ減って7球団となり、試合日程が組みづらくなると考えたセ・リーグ会長の鈴木は、当時山口県下関市をフランチャイズとしていた「大洋ホエールズ」とカープを合併させようと画策を始める。
大洋との合併に迫るが…
3月初め、鈴木が広島野球俱楽部社長の檜山を呼びつけ「プロ野球はカネが無いものがやるものではない」と切り出し、大洋球団との合併を迫った。合併後の新球団は下関市を本拠地にし、カープは解散するという筋書きだった。
檜山以下、当時の球団幹部は、一度は合併・解散を承諾するが、広島に戻ると、当然のことながら地元ファンが強く反発する。鈴木の合併案を受諾するはずだった重役会は、初代監督の石本が提案した「後援会」組織化による資金集めに活路を見出すことに方針を変更し、合併撤回を鈴木に通告することになった。
石本の提案した「後援会」の結成式は1951年7月29日、対「国鉄スワローズ」戦の試合前に行われた。年会費200円で県民から広く浅く支援金を集める考えだったが、提案から4カ月余りのこの日までに集まった会員は1万3141人、会費にその他の寄付を加えた支援金総額は271万5784円に達し、さらに年末までに440万2930円に積み上がった。