地元・広島の自動車メーカー・マツダが筆頭株主になっている、プロ野球の人気球団「広島東洋カープ」。いまでこそ球界随一の「地域で愛されるチーム」だが、マツダもカープも、かつては苦難の連続だった——。

 ここでは、日本経済新聞編集委員である安西巧氏の著書『マツダとカープ―松田ファミリーの100年史―』(新潮社)から一部を抜粋。カープ球団発足の経緯や、球団名の由来を紹介する。(全2回の2回目/前編を読む

広島東洋カープ ©文藝春秋

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カープ誕生の背景にあった元中日球団代表の「野望」

 さて、ここから広島でのプロ野球球団創設に話は移る。

「最も早くセ・リーグに加盟を申し込んできたのは広島であった」

 当時正力松太郎の手足となって球界工作を行っていた鈴木龍二は回顧録にこう記している。

 記録を辿ると、球団設立の受け皿となった「広島野球俱楽部」が日本野球連盟に加盟申請をしたのが同年9月28日、認可されたのは11月28日だが、この時すでに日本野球連盟は解散しており、加盟先はセントラル野球連盟となった。

 カープ球団創設の功労者といえば、「広島野球俱楽部」の発起人代表で戦前は内務省警保局長(現在の警察庁長官)などを歴任した谷川昇(1896~1955年)をはじめ、中国新聞社創業一族で当時社長の山本実一(1890~1958年)、初代カープ球団代表(元中国新聞社東京支社通信部長)の河口豪(1904~97年)、初代監督の石本秀一(1897~1982年)らの名が挙げられる。

 一方、「最初に広島での球団創設を思いついたのは、広島出身で元金鯱軍理事の山口勲さん」との説もある(1999年4月3日付中国新聞「カープ球団創設50年 われらカープ人」)。

 金鯱軍というのは、名古屋新聞社(中日新聞社の前身の1つ)を経営母体に1936~40年の5シーズン存続したプロ野球球団「名古屋金鯱軍」のこと。金鯱軍は、日中戦争の泥沼化で戦地へ召集される選手が増えて各球団が人員不足に陥る中、1941年に翼軍と合併し「大洋軍」(後の大洋ホエールズとは無関係)となり、親会社の名古屋新聞社もその翌年に新愛知新聞社と合併し、中部日本新聞社と名前が変わった。

 先の中国新聞の特集記事はこう続く。

「チーム数が増える。それならば広島につくれないか、と山口さんは考えた。しかし、連盟と関係が悪い自分は動けないと判断。そこで、『郷土に球団創設の機運をつくってほしい』と(谷川)昇さんに申し出たのである」

 確かに、山口から谷川への働きかけが球団創設の流れを生んだといえる。