15歳でデビューすると瞬く間にグラビアアイドルの頂点に君臨し、雑誌のみらずバラエティ番組などで活躍した矢部美穂。しかしそこに至るまでの歩みは壮絶だった。継父からの暴力や暴言、イジメ、母の4回に及ぶ離婚――。芸能界でようやく自分の居場所を見つけた彼女の半生を辿る。(全2回のうち1回目/後編を読む)
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母の再婚相手から受けた凄惨な暴力
――子どもの頃は、どんなお子さんでしたか?
矢部 暗かったですね(笑)。人見知りが激しくて地味な4人きょうだいの一番上で、家では主導権を握っていましたが、家の外ではいつも下を向いてましたね。
――矢部さんは、お母さまの離婚、再婚に伴い、お父さまが2人いらっしゃったそうですが、まず、ご家族について教えて下さい。
矢部 私は血の繋がった最初の父(矢部の実父)と、2人目の父(母の再婚相手)がいて、母は同じ人と2回ずつ離婚しています。私は矢部のきょうだいが4人いましたが、母が再婚したことによって、再婚相手の連れ子2人も一緒に暮らしたり、時期によっては妹が一人だけ矢部に預けられたりと、もうぐちゃぐちゃでした。
――2人目のお父さまが矢部家にやってきたのはいつくらいですか?
矢部 たしか、私が中学生になってからかな。気づけば家にいるようになって、母に「この人と結婚するから」って言われたような……。
――お母さまの再婚相手は、どんな方でしたか?
矢部 ……。それは厳しかったですね。建設会社の社長で体格もガッシリしていて、まぁ暴言や暴力が凄かったです。自分の血の繋がっている子どもは可愛いけど、矢部の子どもたちのことは嫌いなんですよ。特に、妹にはアタリが厳しかったですね。私は長女で機転が利いたというか、それなりにやってたんですけど、妹たちはご飯抜きとか、お風呂も1週間、2週間も入れてもらえないこともあって、今思うと常に汚い感じで。
「矢部の子どもをボロボロ産みやがって!」
――なぜそんなに怒るのでしょうか?
矢部 自分の子じゃない、矢部の子どもだから面白くなかったんでしょうね。継父の口癖が、母に「矢部の子どもをボロボロ産みやがって!」でした。
それに妹が継父から攻撃を受けているときに、妹を守りたかったけど、そうすると私たちもやられてしまう……、ホント、力が凄かったので、守れなかったですね。継父がいないときに、こっそり「今だよ……!」って妹に声をかけてお風呂に入れるとかはありましたけど。もう、何が悪いとかじゃなくて、矢部の子どもの存在自体が許せないんです。
――どうすることもできないというか。
矢部 私は、きょうだいの中では可愛がられた方でしたけど、私も手を挙げられたこともあって。あるとき、たぶん何かで怒らせて、継父が私の背中を蹴ったんです。私は平気だったんですけど、継父が骨折して松葉杖をついてました。
――えっ? 蹴られた側じゃなくて、蹴ったお父さまが、ですか?
矢部 打ちどころが悪かったのかわかんないですけど、私の背骨が丈夫だったんじゃないですか(笑)。ま、バチが当たったんだと思いますよ、きっと。私悪いことしてないし。