劇団では外から迎えた女優の演技力に打ちのめされたこともあったが、腐らず持ち場で演じ続けた。心境に変化が起きたのは、東京スウィカを立ち上げて8年目あたりのことだった。
「劇団の作品では当て書きをしてもらった役が多くて、いつもどこかに素のキャラクターが反映されていました。でも、参加させてもらった外の劇団で、普段とは全く違う役を振られたんです。そこで初めて、役を生きている実感が持てた。自分の劇団ではないところで。私、もっといろんな人に会いたいし、経験したいなと思ったんです。相方は私を束縛していたわけではないけれど、劇団をひとまず置いて外に出たい欲が出てきちゃった。その矢先に、後にマネージャーになる方が声をかけてくれて」
マネージャーは、吉田を映像の世界にいざなった。
「当時、私は30代でした。この歳から映像で売りたいなんて、この人、どうかしてると思って(笑)。でも、これを逃したらもうないってくらい、いろんな事務所も受けたけれどご縁叶わず、このまま小劇場かなと思っていた矢先だったんで、お願いしますと」
吉田羊という美しい彗星が、多くの人に見つかる前夜の話。なんと順風満帆な人生だろう。
蒲原トキコの物語は私にとってセラピー
縁とは不思議なもので、私にとって画面の向こう側の人であり続けると思っていた吉田が、拙著『生きるとか死ぬとか父親とか』のテレビドラマ化にあたり、私をモチーフにした主人公を演じてくれた。私ではない、しかし明らかに私でもある主人公の蒲原トキコの物語を味わうことは、私にとってセラピーのようでもあった。
「お話をいただいて、脚本も原作も面白かったから絶対やりたかったんですけど、この人の役はできないとも思ったんです。私にはないものばかりだったから」
またまたご謙遜を、と言いかけ、吉田は本当にそう感じていたのだろうと思い直す。幾度かのコミュニケーションを経て、吉田の自己の捉え方は、世間が考える吉田羊像とかなり違うことを知っていたからだ。箇条書きにすれば順風満帆に見える吉田の人生に拡大鏡をかざすと、行間から思いもよらないものが見えてくる。