『ミシンと金魚』(永井みみ 著)集英社

 50を過ぎた頃から、治療や手術、投薬が必要なわけではないが、普通の人より少し数値が高く、半年から1年に1回は検査が必要、というような症状が身体のあちこちに出てきた。大きな異常も症状もないから、一つ一つ覚えきれないほどだ。その時もそんな検査で総合病院の眼科待合室に座っていたら、後ろから年配の男性の声が聞こえてきた。

「ここはどこだっけ?」

「眼科よ。おめめよ」

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 奥様らしい女性の声が丁寧に答える。

 すると彼は急にいきり立ち、いらだった声が待合室中に響いた。

「眼科って言えばわかる! おめめなんて言うな! 子供じゃないんだ!」

 そっと後ろを振り返ると、男性は車椅子に乗っており、なおもぶつぶつと文句を言っていた。女性は懸命に謝り、なだめていた。

 お二人双方の気持ちが痛いほどわかるだけに、つらい光景だった。奥様はつい口が滑っただけで、子供扱いしたわけではないのだろう。旦那様も、身体が弱ったとたん、子供に教え諭すような言葉遣いをされたら、悲しく、情けない気持ちにもなるだろう。

 身体にも頭にも、あちこちにがたが来ていると実感する毎日だからこそ、しみじみと実感できた。自分もすぐにあちら側……いきり立つ男性か、なだめる女性か、どちらかになる時がくるだろう、と。

 永井みみ著『ミシンと金魚』を読んで、すぐに思い出したのは、数日前に出会ったそんな光景だった。

 主人公カケイさんは自宅で一人暮らしをしている高齢者だ。軽い認知症があり、すでにおむつが必要だし、一人では身の回りのことができない。現在は、訪問介護とデイサービス、そして、親族の通いの介護を受けている。まわりは彼女を子供扱いし、時には赤ちゃん言葉で話しかけられる。だけど、彼女の中には過去が生き続けていて、ずっと考え続け、話し続けている。決して、赤ちゃんではない。彼女が心中で語る昭和は壮絶で、若い人は少し驚いてしまうかもしれない。昔の日本てこんなにひどかったんですか、と。

 でも、だからこそ、読み終わったあとには、人というのはわりかし善良で、優しいものだ、生きることは素晴らしいことだ、と胸を打たれる。さらに老いや死というのは案外悪くないものではないのか、とさえ思うかもしれない。これほどまでにリアルな、老いることの疑似体験ができる小説を私はこれまで知らない。

 ここまでこの小説の美点を書いてきて、逆に勘違いされそう、とちょっと怖くなった。介護小説でつらいの? しかも、純文学なんでしょう? ちょっとむずかしそう、と。でも、違う。この話は小説としての楽しみが十二分に詰まっている。謎解き要素もあるし、読み終わった時の爽快感は、他の小説では代えがたいものだ、ということを、最後に記しておきたい。

ながいみみ/1965年、神奈川県生まれ。千葉県在住。訪問介護ヘルパーの経験があり、現在はケアマネージャーとして働く。本作で、第45回すばる文学賞を受賞しデビュー。
 

はらだひか/1970年、神奈川県生まれ。07年「はじまらないティータイム」で第31回すばる文学賞受賞。近著に『古本食堂』。

ミシンと金魚

永井 みみ

集英社

2022年2月4日 発売