『きみだからさびしい』(大前粟生 著)文藝春秋

 京都のホテルに勤める主人公、圭吾。彼は「図体はでかいのに覇気がない」などと「年齢が上の、特に男性の社員からいわれることが」あるが、そのような声を「どうでもいいと思ってしまう」し、自らについても「自分に興味を持てなくて、いつもぼんやりしている」と捉えている。しかし本人のそのような自己認識とは裏腹に、物語が進むにつれて彼は悩み、葛藤を深めていく。その原因のひとつが、ポリアモリーを自称するあやめへの恋愛感情だ。相手との合意の上で同時に複数の人と恋愛関係を結ぶのがポリアモリー。圭吾はあやめと付き合うことになるが、あやめにも自分だけを愛してほしいがゆえに、不安や嫉妬に苛まれる。だが彼はその気持ちをなかなかあやめに伝えない。そもそも恋人になる前から、彼女がポリアモリーだと知る前から、圭吾は自らの気持ちを欲求に任せて伝えるようなことはしなかった。「俺は、恋に恋したくないし、恋と性欲を混同したくない。ちゃんと俺の恋のこと、あやめさんへの好きの気持ちのことを把握したい。欲望を把握したい」というのだ。感情や身体の反応を理性によって徹底的に俯瞰しようというこの潔癖さ。心身二元論的な、古風でさえあるこの態度は、しかしこの物語においては、現代的な心性の一側面としても読み取れる。

 既存のジェンダー観による抑圧、セクシュアリティへの偏見、モノガミー的な関係の絶対化――決して十分ではないものの、そういった価値観のステレオタイプが相対化され、多様性が可視化され、抑圧や偏見は表面化し、現代を生きる私たちは、個々の欲求や価値観を以前よりは肯定しやすくなったのかもしれない。だが一方でそれは、自分以外の者への個別具体的な想像力、即ち多様性への理解や対応を強く要請されるということでもあるし、何より自分自身の価値観や偏見が常に相対化を迫られるということでもある。恋愛もその感情も、数ある価値観や欲求のひとつでしかなく、それが自他への抑圧や偏見にもなりうるのである。

 ゲイである金井に告白されたときも、圭吾は、どこか俯瞰してその状況を捉えてしまう自分や、金井を傷つけないようにと考えるときのマジョリティとしての「上から目線」に罪悪感を抱き、さらに、誰かに「好意を寄せられるのが苦手だ」「なにかを背負わされているように感じ」ると自己分析し、そういう自分を嫌悪しさえする。一方で彼は、多様性を前提とした現代に生きて、傷つけたり傷ついたりする自分を持て余すがゆえに、普段は「ぼんやりしている」ようにも見える。

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 圭吾に限らずこの物語の登場人物たちは皆、それぞれの心身の欲求や価値観を抱えて、自他と向き合い、深く葛藤する。その葛藤は現代を生きるということのありようを、饒舌に、あるがままに語っているように思う。

おおまえあお/1992年、兵庫県生まれ。2016年、「彼女をバスタブにいれて燃やす」で小説家デビュー。21年、『おもろい以外いらんねん』が第38回織田作之助賞候補に。
 

そめのたろう/1977年生まれ。歌人。歌集に『あの日の海』『人魚』。現在、笹井宏之賞の選考委員を務める。

きみだからさびしい

大前 粟生

文藝春秋

2022年2月21日 発売