人間は、森羅万象のうちのひとつに過ぎない
起こらないはずの虫害に蝕まれたオアレ稲が「来て、来て」と香りの声で呼び寄せようとしているのは一体何なのか。原因を突き止めるべくアイシャたちも奔走するのだが、植物が発する香りの声が、目の前の景色を瞬く間に変えていく様は、パニックホラーさながらの凄まじさだ。
「私は、いつも、人間は、森羅万象のうちの、小さなひとつに過ぎないと感じています。繋がり、影響しあい、流動していく生態系のネットワークの中に、私たちは組み込まれているわけですが、その生態系の有様すべてを完全に把握することは、とても難しい。
わからないことがたくさんあって、多分、多くのことを知らぬまま、私は死ぬのだろうなあ、と思っています。哀しく、虚しいことですが、でも、それを思うこと――知らないことが、この世にはまだまだ膨大にあるのだ、と思いつづけること――にも意味はあると私は感じています。アイシャが歩んでいく姿を描く間、ずっとそんなことが心の中にありました」
すべてを制御できるという人間の驕りが、制御しえない命の反乱によって覆され、森羅万象のネットワークが張り巡らされたこの世界の本当の姿に気づいていく。それは、とりもなおさず、命とは本来どういうものかという問いに繋がっている。
「この世は、常に同じものが一人勝ちし続けるようには出来てはいないような気がします。生き物は死ぬように出来ているし、植物も、あるものが枯れると、あるものが栄えたりする。多様であることにも、均一であることにも、それぞれメリット・デメリットがある。
植物に関わる物語だったせいか、『香君』を書いている間、いつも以上に、そんなことが頭の中を巡っていたような気がします」