植物や昆虫による香りのコミュニケーションを感じるアイシャ
「たとえばクログルミが出す他感物質は、トマトなどのナス科の植物やレタスなどのキク科の植物の成長を阻害するから、近くに植えてしまうと育ちにくいけれど、イネ科の植物には作用しないそうです。このアレロパシーの研究は、様々な可能性を秘めている、とても面白い研究で、私は強く心惹かれました。今回あとがきの後ろに参考文献の一覧を載せているのですが、こうした本に続けざまに出合ったことで、研究者たちの地道な努力の成果が私たちの生活を支えて、命を繋いできたんだなということをあらためて強く感じました。
もちろん、『香君』は異世界の物語ですから、オアレ稲などは実在の植物ではありません。でも、植物と他の様々な生物が香りによって繋がっているという、生態系のネットワークは、私たちが生きているこの世界でも、存在しているわけです」
『香君』の主人公である少女、アイシャは、吹く風の中に、植物や昆虫たちが行っている香りによるコミュニケーションを<香りの声>として感じながら生きてきた。
「彼女は生まれた時から香りで世界を見ていたから、この草がこういう香りを発したら、こういうことが起こるというのがわかりますが、彼女は、もちろん万能ではありません。そのことは、彼女が一番良く知っています」
遺伝子の多様性に乏しい作物のリスク
害虫がつかないはずのオアレ稲に虫害が発生して、オアレ稲に過度に依存していたウマール帝国は、凄まじい食糧危機に見舞われる。
「オアレ稲は、非常に効率よく育てることができて、生産性も高く、いいことずくめの奇跡的な作物ですが、すべてが同じ性質をもった作物ですから、いったん、この稲を害するものが現れると、ドミノ倒しのように一斉にやられてしまう。
有名な話ですから、ご存じの方も多いと思いますが、かつて盛んに栽培されていたグロスミッチェルという美味しいバナナが、パナマ病という病害で大きな被害を受けてしまったことがあります。株分けで栽培されるバナナは、遺伝子の多様性に乏しいので、同じ病気に弱いのですね。同じ性質をもっている作物は、生産効率が良く、予測可能で、作る人にも売る人にも都合がいい場合があるけれど、その一方で、ひとつの病害で大きな打撃を受ける可能性があることが、『世界からバナナがなくなるまえに 食糧危機に立ち向かう科学者たち』という本で印象的に描かれていて、私はとても面白く読みました。
もうひとつ、まだ中学生か高校生だった頃に知ったアイルランドのジャガイモ飢饉も、私にとっては忘れ難い話で、作物と人間社会の密接な関係がずっと気になっていました。そういうあれこれが、『香君』を描くとき、私の中から滑り出て来たのだと思います」