「理由はひとつではなく、いろいろとありました」
笠井さんは、あの頃を振り返る。
「まず大学できちんと勉強をしたかったというのもありましたし、北海道から上京をして一人暮らしだったもので不安な部分もありました。家事とか全部ちゃんとやりたいタイプだったので。
あと野球部の空気というか、いわゆる強豪の……それを味わいたくて入ったんですけどね。まあ、いろいろと重なって、じゃあどれを捨てるかとなったとき、高い学費を出してもらって上京しているわけですし、やはり勉学を優先すべきだろうと」
そこには野球推薦を受けて入部をしたわけでもなく、また寮生でもない一般の通いの学生ならではの葛藤があった。
「当時はなにも知らなかったもので…」プロへの道はどこからつながったのか
「今考えればやり方はあったと思うんですけど、当時はなにも知らなかったもので……」
先ほど笠井さんが言っていた「やりたくないことは出来ない」という言葉を思い出す。
ただこうなると高校のとき少しだけ意識したプロの世界は儚くも霧散してしまうかもしれない。果たして気持ちの整理は出来ていたのだろうか?
「当時、正直プロに関しては考えてはいなかったのですが、振り返れば(整理を)出来ていなかったからこそ、その後の道のりがあったんだと思います」
笠井さんは勉強をするかたわら硬式野球サークルに参加するなど自分がやれる範囲でプレーをつづけた。授業で学んでいたトレーニング理論を活用するなど熱心に練習をしていると大学3年生のときに球速は140キロを超えた。
自分に自信が出てくると、さらに上のステージを目指したくなるのが人の常である。そんな折、早大の1学年上で野球部を退部していた安田権守が、大学に籍を置きながらプロ野球独立リーグの『ルートインBCリーグ』で活動していることを知った。
自分にもできるかもしれない。3年生の11月に開催されたBCリーグのトライアウトに笠井さんは参加すると、140キロ台半ばのストレートを投げ込み評価され、信濃グランセローズに入団した。独立リーグであるが、立派なプロ野球選手。笠井さんは独自の方法で道を切り拓いていった。
「『こうすればいいんじゃないか?』を全部潰して野球に区切りをつけようと…」
翌年の4月から9月にかけ開催されたレギュラーシーズンに参加。笠井さんは大学4年だったが、それまでに必要とおぼしき単位を取得し、長野からリモートで授業を受けたという。ここで日本のプロ最高峰であるNPBも見えてきたが、そこは意識していたのだろうか。