3カ月間で一番しゃべった言葉は「もう一回言って」
T病院は大きく、300人程度の入院患者がいます。患者の状態はひとりひとり違っていて、私のように理学療法、作業療法、言語聴覚療法とフルにリハビリを受けて忙しい人もいれば、言語障害がなく余裕のある人もいます。
私の病室がある3階は、4人部屋がずらりと並んでいて、食堂、電話ボックス、売店、談話室、洗濯機などがありました。洗濯機はプリペイドカード式になっていて、患者同士が「いま、空いてますか?」「使い方がわからないので教えて下さい」とか声をかけるので、ちょっとだけ仲良くなります。
同室になった年配の女性は、脳梗塞で足が不自由になり、車椅子に乗っていました。「もう治らないの。だから早く退院したい」と言っていましたが、言葉はしっかりしていました。
そんな彼女が私の言語の宿題を見て、「どうして漢字ばっかり練習するの? 最初はあいうえお、次はかきくけこでしょう?」と言いました。前にも書きましたが、言語障害のある患者にとっては、ひらがなよりも漢字の方が理解しやすいのですが、なかなか納得できないようでした。でも、彼女の疑問への私の返答が意味不明なので、ようやく諦めてくれました。
患者同士の会話でおもしろそうな話題が出ると、私は「もう一回言って!」と頼みます。会話が早すぎてついていけないからです。
もう一回言ってもらうと、私は「何がおもしろかったのか」を頭の中でゆっくりと考えました。リハビリ病院にいた、3カ月間で、私が一番しゃべった言葉は「もう一回言って」かもしれません。
退院一カ月前にあたる3月12日の金曜日の言語聴覚療法の時間の最後にも、宿題が出ました。
■「梅」「足」「本」など、絵を見て漢字を書く。
■「救急車」「神社」「茶碗」など、絵を見て正しいものを選ぶ。
■「木」「椅子」「猫」「風呂」「手」「海」「水」「髪」の8つの漢字の読みを書く。
■1から9まで、一ケタの数字を使った算数を解く。
漢字の「読み」、これだけのことが、当時の私にとってはとても高いハードルでした。
「猫」という漢字を読む宿題を私が「ね、ぬ」と読むと、同室の女性が「違う。ね、こ!」と教えてくれて、そのうちに洗濯機仲間も手伝ってくれるようになりました。
土日には病院ではなく、自宅で小2の娘と中1の息子に手伝ってもらってずっと勉強し、覚えました。
私の人生で、これほど集中して勉強したことは一度もありません。
とても難しかったし、飽きることもなかった。私は日常を取り戻そうと必死でした。 (以下次号)
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