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ずっとケガとの戦いでしたね

斎藤 20年に肘の靭帯を断裂したのですが、手術ではなく、自分の血液から採取した血小板を患部に注入して再生医療技術で修復させる「PFC-FD療法」を選択しました。2か月後にはキャッチボールができるまでに回復したのですが、球速は戻らなかった。

 でも、ファームであってもマウンドに立てるのが嬉しく、こんな僕にチャンスをくれるファイターズに感謝しながらリハビリを続けていたんです。

 ところが9月にマウンドに立った時、肩に激痛が走り腕を振れなくなってしまった。これ以上プロ野球選手を続けるのは難しいと判断し、自ら引退を決断しました。

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 実は入団2年目辺りから肩や肘の故障には悩まされていたんです。それ以降はずっとケガとの戦いでしたね。痛みや違和感でなかなか思い描く投球ができず、朝起きたら奇跡が起きて痛みが消えていないかな、なんてよく妄想していましたね(笑)。

 思い通りのピッチングができて、あ、もう大丈夫だと喜んだら、なんだ夢か、なんてことも度々ありました。

 ファーム暮らしが多かった僕に、外部から批判があるのも知っていました。僕もこのままでいいのか、と考えることはありましたけど、トコトン自己対峙してみると、野球を諦めたくない自分がいる。それなら、自分に嘘をつくのはやめ、球団からクビにならない限りは一軍復帰を目指し、しっかりリハビリとトレーニングをやることが、チームへの恩返しと考えていたんです。

栗山監督にかけてもらった言葉が大きかった

――常に注目されつつ、結果を残せない。かなりの葛藤があったと想像しますが、それでも笑顔を絶やさなかった。

斎藤 周りから「メンタル、強い」とよく言われます(笑)。でも、どうなんですかね…。究極のことを言うなら、野球ができることが本当に楽しかったんですよ。それは二軍であっても同じ。その楽しさが表情に出ていたんだと思います。

 それとやっぱり、栗山監督(英樹=日ハム前監督)の存在、あるいは栗山監督にかけてもらった言葉が大きかったですよね。栗山さんは僕がケガで苦しんでいる時も「絶対、いつかみんな助けてくれるから、だから自分がやるべきことをちゃんと一生懸命やりなさい」って。そして「今頑張ることで、いつか必ず助けてくれる」って。

 

 その時は「いや、今が大事でしょ」と思っていたんです。「今、結果出さないとダメだし」って。でも、先発から中継ぎになり、そしてファームに落ちても、栗山さんが口酸っぱく言っていた「今やるべきことをちゃんとやる」ということを守っていたら、やはり周りの人たちに助けてもらう機会が多くなり、少しずつ進んでこられたのかなと思っています。

 特に新たな道に進んだ今、栗山さんの言葉を改めて噛みしめることが多いですね。ファームにいる時に毎日コツコツやれることを精一杯やっていた姿を多くの方が見て下さっていて、その方々が今も尚、応援してくれていると感じています。

――引退後、BIGBOSS(新庄剛志監督)にはお会いになりましたか。