「口裂け女」に「母親」を投影する理由
結局のところ、我々は「母性」のネガティブな表れを期待し、「子殺しの母」の恐怖を求めているのだ。ユング心理学における太母(グレート・マザー)といったような、手垢のついた説明概念によりかからずとも、こうしたイメージが世間にありふれていることは、現代のあらゆる娯楽作品のストーリー展開を見れば明らかだ。
近年のアメリカで製作される娯楽映像作品を例に挙げるのが、最もわかりやすいだろう。映画やドラマに出てくる「敵」「乗り越えるべき障害」の多くが、象徴的な役割としての「子殺しの母」「子殺しの父」であり、この父母を(象徴的に)殺す解決こそが物語のカタルシスとなる。
もちろん象徴的な「親」なので実の父母とは限らず、ボスだったりメンターだったり怪物だったり、時には人格を伴わない「トラウマ」や「目標」だったりもする。
これはまた殺人鬼やモンスター、事故や災害などの災厄に見舞われる中、幼い子供たちの生存率だけが突出して高く描かれることと表裏一体でもある。
現代人にとっての最大の恐怖は、子供が死ぬこと、子供が殺されること。だから「子殺しの親」こそが敵・障害の典型となる。あるいはもっと広くとって、「子の成長を拒否する親」までを範囲とすれば、より伝わりやすいだろうか。
これと匹敵する絶対悪は「不老不死」しかないが、結局のところ「不老不死」「子の成長の拒否」「子殺し」はいずれも同根の悪なのである(注9)。
そして日本ではアメリカほど「子殺しの父」の存在が大きくないので、代わりに「子殺しの母」がクローズアップされる。とりあえず、近年の日本ホラー文化を代表する作品として澤村伊智『ぼぎわんが、来る』(2015)を挙げておくが、他にも「子殺しの母」がモチーフとなるホラー作品は枚挙に暇がない。
「ただの人間」だったはずの口裂け女がキャラクター化・怪物化され、そして「母親」の恐怖を投影されてしまった……という一連の動向。それはもはや、なるべくしてなった変節だったのかもしれない。
「口が耳まで裂けた女」という怪物イメージは、まったくもってありふれた古典的なものだ、だからこそ、さまざまな解釈をどこまでも受け入れ、すぐに変化してくれる万能の器でもある。
2021年においてもまだ、「口裂け女」という怪物は「母親」の解釈を背負わされている。木下の言葉を借りるなら、それは現代の我々が「子殺しの母」に関心があるのだと、無意識のうちに告白していることに他ならない。
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注1 『毎日小学生新聞』(1979年7月5日号)。「話が日本じゅうに広がるまでに、わずか半年間ほど。百メートル6~12秒の速さで“口裂け女”が日本列島をかけ回ったことになるわけです。うわさとは何とも、ものすごいものですね。」
注2 ミニ・サラ『なぞなぞ大爆発——最新作』(二見書房、1979)
注3 たとえば『ユリイカ』(1998年8月臨時増刊号)の京極夏彦・村崎百郎の対談「怪談は転生する——近代という膜が破れる時」など。
注4 平泉悦郎「全国の小中学生を恐れさせる「口裂け女」風説の奇々怪々」『週刊朝日』(1979年6月29日号)。
注5 秋山さと子「噂話の深層心理」『月間言語』(1989年12月号)。
注6 『岐阜日日新聞』(1979年1月26日)。
注7 宮田登『妖怪の民俗学——日本の見えない空間』(岩波書店、1985)。
注8 木下富雄「現代の噂から口頭伝承の発生メカニズムを探る——「マクドナルド・ハンバーガー」と「口裂け女」の噂」『応用心理学講座4』(福村出版、1994)。同様の主張は、宮本直和「「子供の流言」研究:大人の見る子供の現実と子供の現実」(神奈川大学、1999)でもなされている。
注9 とにかく「子殺し」の恐怖を執拗に描き続ける山岸涼子のマンガ作品中でも、屈指の名作とされる「汐の声」(1982)を思い出そう。我が子の成長を拒否したあの母親は、同年に発表された「夜叉御前」(1982)の鬼女たる母親と並ぶ、山岸版「子殺しの母」の代表格である。