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「頼むに、一回出てもらえんかね」戦後の満州で起こった“性被害”の悲劇…開拓団員の日本人男性が仲間の女性たちに伝えていた“お願い”とは

『ソ連兵へ差し出された娘たち』より #2

2022/06/14

genre : ライフ, 歴史

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松花江の犠牲 

 善子たちが新京をめざして一足先に去ったあと、黒川開拓団も集団引揚げに向けて動きはじめていた。いつまでもぐずぐずと、陶頼昭(編集部注:団の入植地)に留まっているわけにはいかない。

 そうとはいえ、内地への引揚船がいつごろ出るかわからないまま、病人や幼い子を含む大集団が一度に移動するのは無謀と思われた。まずは新京に設営班を置こうと、団幹部らは考えた。 

 2名の男が6月下旬、新京に向かった。 

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 だが、内戦のさなか、彼らが松花江の鉄橋を渡ってから、ある事件が起こる。北進を続ける国民政府軍が第二松花江の南岸まで迫っていたため、その進攻を阻もうとしてか、河にかかる鉄橋が爆破されてしまったのだ。 

 7月、第二陣の男たちが息せき切って、パンツ一枚のような出で立ちで陶頼昭に戻ってきた。河にかかる鉄橋が壊されてしまったため、なす術もなく、川幅50メートルほどの第二松花江を泳いで渡ってきたのだ。 

  使命感に燃えた彼らは広場に団員らを集め、新京の状況を報告した。すでに日本人の引揚げがはじまっているから、ぐずぐずしている場合ではない――。 

 この報告を受けて、ついに黒川開拓団は陶頼昭を去ることにした。 

 8月12日、薄暗い雲の下、わずかな食糧や幼い子を背負い、団員らはぬかるんだ道を歩きはじめた。自力で歩けない重病人や老人が12名ほどいたが、担架に乗せて若者らが運んだ。 

 夕刻からは雨が降りはじめ、数キロ先の松花江が果てしなく遠くに感じられる。雨にずぶぬれのまま一夜を明かし、2日目の晩も柳の原っぱで過ごした。 

 3日目、ようやく松花江の河辺までたどり着いた。しかし、肝心の鉄橋はもうなく、満身創痍の大集団が大河を渡るには船が要る。 

 このとき発生した現地人との金銭のやりとりについて、団員らの記録にはばらつきがある。だが、遺族会文集には、「事前に」仲介役の満人に金を渡していた、「その場で」1人10円くらいの金をとられて身体検査をされたといった記述が見受けられる。

 当時団長代理だった藤井成一氏は、この人なら信用できると思われる満人に、当時の金で二千五百円を渡して松花江を渡るための商談をなされた。松花江を挟んでの北の中共軍と南の国府軍と交戦中で、北の中共軍側から南の国府軍支配下の土地に渡るのは大変なことで、こうした手段を取るより方法はなかったようである。 
(『あゝ陶頼昭』より)

 しかし、「通行料」は金銭だけでは済まなかった。