ここでまたもや、娘たちが交換条件に用いられたのだ。「交渉」があったとすれば、相手は共産党側なのか、国民政府側なのか――。どちらの側にせよ、再び、女の犠牲が生まれる結果となった。今度は、中国人兵に選ばれた若い女がみんなの前で連れていかれてしまった。
「それだけは姉さんもぜーったいに、言わなかったね」
自分の亡き姉も松花江で犠牲になった。そう明かしたのは、三班の風呂焚きをしていた千代子である。千代子の父は敗戦前、母は敗戦翌年の春に亡くなり、9歳上の姉は親代わりの存在だった。
それが語られたのは、「接待」について訊ねたときのことだ。千代子は強い方言でこう話しだした。
「うちの姉が生きとったらよ。よう知っとったけどよ。あの人もいっぺんだけ犠牲になったけどよ。それだけは絶対に言わなんだよ」
「いっぺんというのはソ連兵の接待のほうに?」
「ソ連じゃない」
千代子ははっきりと否定した。
「中国。河を渡るときに『いっぺん出てもらえんだろうか?』ってよ。姉は結婚してて、旦那が兵隊にいっちゃってた。それでソ連の接待には出なかったわけ」
千代子は私から「接待」の質問をされたのに、ソ連兵に対してではなく、松花江での出来事を連想してしまった。そのことからも、松花江の犠牲も、本質的には団からのお願いと捉えていたことが窺えた。
一行が松花江の畔にたどり着いたとき、千代子は20代前半だった姉の傍にいた。黒川開拓団の男が姉に頼んでいるのを見た、と彼女は重ねて述べた。
「それはすごく覚えとるがね、雨が降るのにね、『頼むに、一回出てもらえんかね』って言ってみえたもんでね」
1946年8月12日から連日雨が降っていたのも、遺族会文集の複数の記述と一致する。
中国人兵が女の提供を要求したにせよ、そのときに団の男側が女に、「協力」を促したのだろう。
「誰に言われたんですか?」
「男の人やけど、そこまでは姉がおらんでわからんけども、言ってござった」
千代子は自分の前にいた娘も、中国人兵に連れていかれるのを見た。
その娘とは、医務室にいたみね子の3歳下の妹だった。みね子自身はこのときには、八路軍の開院準備中の病院で働かされていて、黒川開拓団と一緒にいなかった。
千代子の姉はほかの娘たちと連れられていき、一晩帰ってこなかった。その翌日、中国人兵らに連れられて黒川開拓団へ戻ってきたそうだ。