「ほいでそのあとに、『へんなおりものが下りるんで、なんだろうねえ』って、姉が私に言ったことがある。……病気がうつっとったんじゃないかね、たぶんそうやに」
岐阜中部の方言か、名古屋弁なのかはわからないが、千代子はあけすけにものを言う。
しかし、当の姉は90代で亡くなるまで一度も、松花江での被害を妹以外には話さなかった。
「それだけは姉さんもぜーったいに、言わなかったね」
帰国目前で帰れなかった人たち
娘たちの犠牲によって橋のない大河を渡ってからも、団員たちはひたすら歩き続けなければならなかった。連日続く避難行に疲労は限界に達し、いまにも倒れこみそうな者ばかりである。自力では歩けない病人や老人を乗せた担架を運ぶ男たちの足も、止まりがちになっていった。
このとき、ある老人が見放されて、道端に置き去りにされたと証言する元団員もいた。
命からがら新京にたどり着いた夜、
「水、水……」
とひとりの娘が苦しそうに訴え続けた。
担架で運ばれてきた重病人で、「接待」を強いられた約15人のうちの1人だった。
同じく犠牲者のセツ(仮名)の胸には、このときのことが深く刻まれていた。
新京に着いた翌朝、セツの家族のもとへ、
「姉ちゃんが死んだから、(遺体を)運ぶのに帯を貸してほしいんやけど」
とその子の弟が言ってきたからだ。
「帯っていうのがこれなんや」と、セツはその長い帯を私の前で広げて見せてくれた。
白い縦じまの入った黒色の絹織物である。戦前にセツの母親が長男のために、家の蚕の糸を紡いで、はたを織って作ったものだという。その後、徴兵された長男はフィリピンで戦死してしまったが、母親はこの帯を息子の形見のように大切にしていた。
セツはいまでも帯を見ると、亡くなったその子を思い出すと語った。
母の織った帯に包まれた遺体は、セツの父親が背負い、少年とともに野原のどこかへ葬りに行ったそうだ。
「ごめんなさい」――。セツは何もしてあげられなかった友人に、心の中で詫びることしかできなかった。
黒川開拓団は新京に20日ほど滞在して、奉天、錦州へ向かった。そして、コロ島から日本海を渡って、9月初旬、ついに祖国の地を踏むことができた。
松花江が望める砂山、団本部の倉庫裏、駅のホームの外れ――。集団自決こそ免れたものの、二百数十名が命を落とし、異郷の地で眠りについた。