だが、モリモトは四六時中、善子たちと一緒にいたわけではない。弟らが知らないところで、姉妹は日本人収容所でも性被害とは無縁ではいられなかった。
寝苦しくて目を覚ますと、男が上に乗っていた
久子によると、新京に着いてまもないころ、「やっぱり、日本人はいいな」と思っていた矢先、ある日の夜中に寝苦しくて目を覚ますと、男が上に乗っていたという。子どもと一緒に収容所に入ってきた日本人の男だった。翌朝、男が子どもと一緒に出かけたあと、久子たちはその収容所を逃げ出した。
2カ月ほど経つと、ようやく次の引揚船に乗れそうだという噂が流れはじめた。善子はあらかじめ準備しておいた保存食を、きょうだいのために縫ったリュックの中に入れて持たせた。
新京を7月に出て、その南の奉天では10日滞在した。さらにコロ島近くの錦州に10日ほどいた。コロ島に着いたのは7月末のことだった。そこから引揚船に乗りこんだ。船の中でお腹が空くと、善子が少しずつ保存食を手の平に乗せてくれる。そのおかげで、きょうだいは飢えを感じることなく、過酷な旅を耐えることができた。
善子は生前、家族のことで思い悩む久子の相談に乗るかたちで、久子にあてた音声メッセージを録音していた。2時間に及ぶ長い語りの中で、新京での苦労話にも触れている。
「いつ日本に帰ることになって、何日間か難民生活になっても、腹減らんようにしとかなあかんで、飢え死にするようなことになってはあかんでって思って――」。豆を炒る、ニンニクを買い占める、味噌を甘辛く煮る。とにかく、両親を失った下の子3人が生きのびられるようにと必死に知恵をふり絞った日々だった。
「本当に姉さんには頭が下がる。男みたいな気性やった。清水の次郎長みたいな任侠肌っていうんかな。『久子! 人間ってのは、あまり律儀に生きても損をする』って言うとった」
久子にとって、善子の存在は言葉では語り尽くせないほど大きかった。