90年代にブレイクし、アイドル、俳優、歌手として活躍した鈴木蘭々(46)。

 芸能生活30年超を誇る彼女に、デビューまでの経緯、二人三脚でブレイクを掴んだ事務所社長との出会い、安室奈美恵とのユニット「シスターラビッツ」を組んだ『ポンキッキーズ』抜擢秘話などについて、話を聞いた。(全2回の1回目/2回目を読む)

鈴木蘭々さん

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――来年でデビュー35周年になるんですよね。デビュー30周年の2018年に、長いブランクを経て歌手活動に復帰されています。

鈴木蘭々(以下、蘭々) それまでは、ミュージカルのお仕事をしたり、会社を立ち上げて化粧品の事業をしていて、音楽活動からは離れていたんです。

 でも、『ポンキッキーズ』のエンディング曲に採用された「キミとボク」という曲をすごく好きだと言ってくださる、ベーシストでもありプロデューサーでもある立川智也さんという方からお声がけいただいたことをきっかけに再開しました。 

スカウトされたくて、原宿をぶらぶらしていた

――中学1年生の時に原宿でスカウトされて1989年にデビュー、とのことですが、もともと歌手になりたかったんですか。

蘭々 アイドルが好きだったんですよ。小学校低学年の頃は(松田)聖子ちゃんで、小学校高学年の頃はミポリン(中山美穂)。周りは光GENJIとか、メンズに憧れてる子が多かったけど、私はどうしても歌が好きだったから。聖子ちゃんの歌とか、ミポリンの歌とかをひたすら聞いて、家で歌いながら歌手になった自分の未来の姿を想像していました(笑)。 

 で、アイドルになるにはどうしたらいいのかを考えて。当時は「全日本国民的美少女コンテスト」なんかがあったりして、私もコンテストに出たり、オーディションを受けたりしたいなとは思っていたんですけど。オーディションを受けるのに、5,000円とか1万円を払わなきゃいけなかった。

――中学生が自分で払うにはちょっとアレな額ですよね。

蘭々 お金が掛かって大変だし、どうしようかなと思っていました。そんな時たまたま本屋で手に取った『De☆View』というオーディション情報誌に「原宿でスカウトされたラッキーガールの白石さん」という方のグラビアが載っていて。もしかして原宿に行きさえすれば私もスカウトされるかもしれないという、安易で身の程知らずな夢を抱いたんです。

――それを実践されたと。

蘭々 そうです。いまでこそ制服で原宿を歩くなんて当たり前だけど、その頃は補導の対象だったんですね。それでも制服を着ていると目立つので、春休みなのにわざわざ制服を着て、原宿の街をクレープを食べながらフラフラしていたら声がかかりました。 

 初日に行って集まった名刺が数枚。通えばもっと集められるかもしれないと思って、春休みの間通いました(笑)。結果、20枚くらいは集まったのかな……その中には今も残っている大手の事務所もありましたね。 

 当時の私はとてもませていたので、ある程度名刺が集まった後、変なところに引っかからないように一件一件、名刺に書いてある連絡先に電話をして。電話に出た人の対応や、契約的な内容を偵察するようなこともしていました。 

 

――アイドルを目指していただけに、前々から事務所の情報を把握していたりは。

蘭々 そういう知識はまるでなかったんですけど、動物的勘のようなものでいろんなことをジャッジしていたように思います(笑)。で、最後までプッシュしてきてくれた会社が2つあったんですね。大手と小さいモデル事務所。 

 モデル事務所の方は秋田書店さんと組んで、「ミスマガジン」ならぬ「ミスチャンピオン」という企画で、読者からの投票を勝ち取って最終的にグランプリになった子が巻頭グラビアを飾れるというお話でした。

 ああいうのって、通常は応募してきた女の子達だけで行われるんですけど、そのときはコンテストのレベルアップを図るために、スカウト組も作ったと言っていました。 

 結局そのモデル事務所の方を選んで、東郷神社で撮った写真でコンテストを勝ち抜いて、晴れて準グランプリとなって『週刊少年チャンピオン』の巻頭に載せてもらったんです。