そこから見える風景は格別でした。豊かな水をたたえた湖が目の前に静かに横たわり、対岸の岩がちの斜面は苔(こけ)むして、そこから立派なマツの木が何本も育っています。人間の手では決して作り出すことのできない自然のままの庭園が目に心地(ここち)よく、眺めていると、心のなかまでが浄化されていくようです。さらに、湖をわたる涼しい風が火照(ほて)った体に触れると、なんともいえない気持ちよさでした。
〈湖に飛び込む……って、いったい、どんな気分なんだろう?〉
ウィルが言っていたことを思い出して、ふと湖を見下ろすと、水際にまで階段が続いています。下りてみると、そのさきに木製のデッキがあり、さらに水中へと下りていく梯子がありました。湖に飛び込んだ後にデッキに戻るための足がかりなのでしょう。
ぼくはデッキの縁に立ったまま、足もとに広がる水面をのぞき込みました。ピケッツ湖の水はまるで薄い紅茶のような色をしています。
森から滲み出す植物性のタンニンがふくまれているだけで、決して汚れているわけではないらしいのですが、日本の渓流(けいりゅう)の澄んだ水を見慣れたぼくの目には、正直なところ、飛び込みたくなるような水の色ではありません。しかも少し深いところの湖の底は黒々としてなにも見えず、子どもの頃に海藻の茂る海に落ちた思い出が蘇(よみがえ)ってきて足がすくみました。
試しに水のなかに手を入れてみると、泳ぐのに適しているとは思えないほど冷たく感じました。さらに、あのワニのような顔をしたノーザンパイクやカミツキガメのいかつい顔が浮かんできました。
〈ヒルだって、泳いでいるかもしれない……〉
そんなことを次々に思い浮かべていると、飛び込もうなんて気持ちはとてもわいてきません。それなのにぼくは、いまここで飛び込んでおかなくてはいけないような気がしていました。
ウィルがあたりまえのように「湖に飛び込むんだ!」と言うのですから、きっとその行為は、サウナというものの体験の一部なのでしょう。火から水の世界へ旅して初めて完結する儀式のようなものかもしれません。だとしたら、湖に飛び込まずしてほんとうにサウナに入ったとはいえないような気がするのです。
しかし、躊躇(ちゅうちょ)しているうちに体はすっかり冷めてしまっていました。そこでぼくはもういちどサウナに戻って、仕切りなおすことにしました。
〈次こそは飛び込むぞ……〉
灼熱(しゃくねつ)の石にふたたび水をかけて、浴室を高温の水蒸気でいっぱいに満たしました。焼けるような熱気につつまれながらひたすら目を閉じて、耐え続けます。