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「何だかだまされているような気がする…」補給の途絶えた島に取り残された極限状態の兵士は“終戦”の瞬間に何を思ったか

『松本連隊の最後』より #2

2022/05/09

genre : ライフ, 歴史, 社会

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 太平洋における日本海軍の最大の根拠地トラック島防衛のため派遣されるも、米機攻撃に遭遇し、多数の人員と装備全部を喪失してしまった「松本百五十連隊」。生き残った兵士は、命からがらトラック島に到着したが、その後、戦線は硫黄島などに進んだため、彼らはトラック島への補給が途絶された状態で取り残されてしまった……。

 上陸から終戦までの1年半を空襲にさらされ、飢餓と戦いながら、彼らはいかにして生き抜いたのか。ここでは、『あゝ野麦峠』で著名な作家の山本茂実氏が、出征していた人々の生の声を記録した『松本連隊の最後』(角川新書)より一部を抜粋。極限状態の戦地で生き延びた兵士たちの知られざる最後を紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)

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玉音放送を聞いた海没慰霊祭の日

 昭和20年8月15日、いうまでもなくポツダム宣言受諾の日、つまり日本降伏の日である。

 そんなこととは知らない長沢少佐の第一大隊では夏島(編集部注:トラック諸島のひとつの島)の砲台山でお盆のてんぷらをあげて盛大な慰霊祭の準備をしていた。

「柏四六五六部隊海没戦死者慰霊祭」というものである。しかるにどうしたものか、この日のことは20年たった今日ではいっこうに要領を得ないことがいくつかある。たとえばてんぷらをあげたことだけはみんなよく覚えているが、かんじんの慰霊祭がどんなふうに行なわれたのかはほとんどわかっていない。

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 また林田連隊長、草間副官、大竹主計将校、門倉軍医のほかにまだ数名の連隊本部の将校が砲台山の会場へ来たことは確かで、この日連隊長は長沢少佐の顔をみるなり「負けたよ、日本は負けたよ! と、いまだかつてみたこともない悲痛な顔で言って握手した。そしてみんなの心づくしに出したてんぷらも一つも食べずに、すぐ師団司令部に行くと帰ってしまった」と。

 これは長沢少佐の記憶であるが、一ノ瀬中尉の話はこれがぜんぜん違う。

「そんなことないですよ、連隊長以下みんなよろこんでてんぷらをたらふく食って、ヤシ酒も飲んで帰りましたよ……」

 連隊長がてんぷらを食ったか食わないかは別として、当時栄養失調者が続出しているトラック島でコプラ油でてんぷらをあげたということがいかに大事件であったかは想像にかたくない。慰霊祭のことはみんな忘れてしまっているばかりでなく、その直後天皇放送によって日本軍敗北という歴史的宣言をきいているはずなのに、その前後のことはみんな忘れてしまい、このてんぷらのことだけはだれもがよく覚えていたということである。

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