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「今年で100歳、80歳から精神が自由になった」染色家の柚木沙弥郎が、若い人からの“かわいい”に思うこと

民藝とは“健康な美”

 高校生の時に太平洋戦争が始まり、東京帝国大学(現在の東京大学)文学部美学美術史学科に在学中、学徒動員されました。僕は内地で終戦を迎えましたが、旧制松本高校の同級生が2人、戦地で命を落としました。1人は小説を書くためにいつも手帳を持ち歩いていて、およそ兵隊には向いていなかった。亡くなった彼らの分も、自分は何かしなくてはいけないと思ったものです。

 田端の自宅が戦火で焼けてしまったので、父の郷里の倉敷に復員しました。翌年には結婚し、大原美術館で働くことになりました。展示解説なんかもしたけど、まあ、受付の切符切りのようなものでした。

 幸運だったのは、館長の武内潔真(たけうちきよみ)さんという人が、柳宗悦先生と親しく付き合っていたことです。武内さんは民藝を知らなかった僕を自宅まで招き、色々と教えてくれました。

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 民藝とは、“用”と“美”が結びついた民衆的工芸のこと。王侯貴族が持っているような工芸品よりも、一般市民が日常的に使うような器や道具にこそ、健康な美があるのだ、という思想を柳先生が打ち出したのです。それまでの美の価値基準の転換でした。

 そうした民藝思想を説いた柳先生の本を武内さんに借りて、貪るように読みました。

 また、美術館には芹沢銈介先生の型染のカレンダーがありました。当時の僕には、それが染物だということさえわからなかったのですが、「おもしろいものだなあ」とひときわ心惹かれたものです。

 美術館に8か月勤めて、大学にちょっとだけ復学しましたが、自分に学問は向いていないと感じました。西洋美術史を勉強していたけど、父も兄も画家だったし、自分もものを作る方が合っている気がした。

 そこで武内さんから柳先生を紹介していただき、柳先生から「君は芹沢君のところに行きなさい」と示していただいたことで、染色の道へと踏み出しました。

 芹沢先生を手伝うつもりが、先生に「まずは染職人のところで住み込みをした方がいい」と言われて、静岡の職人の家で1年ほど修業することになりました。妻は僕の実家に身を寄せ、その間に子どもも生まれた。しょっちゅう「早く帰ってきて」とせっつかれましたね。

東京・駒場にある日本民藝館 ©共同通信社

 結婚した段階で僕は何者になるか定まっておらず、妻からしたら不安が大きかったと思います。染色家を志した時点でも、どんな生活が待っているのか僕にも見えなかった。修業して初めて、染色は家族で仕事をするものだと知りました。画家だったら1人で完結しますが、染色の場合、いろんな工程があるので複数人で作業分担することも多いのです。