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 そういうわけで、修業が明けると、妻が仕事の上でも大事なパートナーになりました。

 やがて助手として、中込理晴(なかごめりはる)という16歳の少年が加わりました。なぜなのか彼のお父さんが柳宗悦先生の甥の悦博さんに頼み込み、僕の元へ連れてきたのです。本人は染色の「せ」の字も知らなかった。

 彼がやめなかったのは妻の功労です。うまくなだめて、仕事を終えると夕飯を食べさせては定時制の学校へと送り出していました。

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 中込君は立派な染職人になり、81歳になる今も、僕の仕事を手伝ってくれています。

80歳から自由になった

 僕は染色家としての仕事の傍ら、1950年には女子美術大学の専任講師になりました。当時はカリキュラムもろくになく、材料を買いに行くのが1日仕事ということもあったくらい。72年には教授になりましたが、昔の大学は今と違って自由でしたね。

 とはいえ、染色と大学の仕事の両立となると、時間のやりくりが大変ではありました。

 1番苦労したのは、同大学・短大の学長になった1987年からの4年間です。会議、会議で、夏休みだろうが会議がある。自分の染色の仕事はまったくできません。任期が満了して、大学人としての勤めを終えた時にはホッとしました。

©文藝春秋

 20世紀の終わりには、今度は染色家として、世の中が変わったことを痛感しました。テキスタイルの需要がなくなったのです。ずっと洋服生地を染めてきましたが、洋服は仕立てるのでなく既製品を買うのが当たり前になっていたし、生地にしても外国から安いものが入ってくるようになりましたから。

 見方を変えれば、僕にとって、それまでの決まった仕事から自由になった時期とも言えます。

 まず、ひょんなことから、絵本を手がけるようになりました。私家版を1冊だけ作るつもりが、それを知った出版社から注文が舞い込むようになったのです。

 80歳が近づく頃から、0~2歳児を対象にした絵本を、お話も含めて作ることが続きました。猫の親子が公園のシーソーで遊ぶ『ぎったんこ ばったんこ』(福音館書店)や、人やいろんな動物の親が自分の子どもを持ち上げる『たかい たかい』(同)などです。

生活をより美しく

 そういったお話は、自分の子育てを反映したわけではありません。仕事が忙しかったから、わが子に対してはずいぶん薄情な親だったなと思います。

染色家の柚木沙弥郎氏による「『民藝』は僕の原点」の全文は、「文藝春秋」2022年5月号と「文藝春秋 電子版」に掲載されています。

文藝春秋

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