イラストレーション:溝川なつみ

 緑が目に飛び込んでくる。爽やかな空気が肺を満たして、いつまでも走っていたい気持ちになった。

 2013年6月4日は、大阪府堺市の泉北(せんぼく)ニュータウンに住むパソコン講師、苅谷(かりや)由佳さん(54)にとって、忘れられない日だ。

 この日、軽い気持ちで始めたランニングだったが、人為的に造られたニュータウンの「緑道」が意外なほど清々(すがすが)しいことに気づいた。その感動が巡り巡って、「ニュータウンにレモンを植えよう」という住民運動に発展し、苅谷さんはその中心に立つことになる。ただし、人生の転機となる1日になろうとは、当時は考えてもみなかった。

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 泉北ニュータウンは同市の南区から、一部が和泉市に食い込む、1557ヘクタールの人工都市だ。

 高度経済成長期の住宅問題を緩和するために、大阪府が1965年から泉北丘陵の雑木林を切り開いて開発した。計画人口は約18万人。高層や中層の分譲・賃貸住宅、さらに戸建て住宅が建ち並び、ニュータウンとしては西日本最大規模である。

泉北ニュータウン。高層、中層、戸建てと、様々な家が建ち並ぶ

 エリア内には小学校区を基本に16の住区がある。緑道はそれぞれの住区を結ぶほか、駅まで車道を通らずに行けるよう建設された。

 最初の住区で入居が始まったのは67年12月。日本で初めてのニュータウン開発となった「千里」のまち開きから5年後だった。この12月でちょうど50周年になる。苅谷さんの父が1軒家を建てたのは、72年にまち開きをした住区だった。

「まだ山を切り開いたばかりで、木陰すらありませんでした。あれから長い年月が経ち、計画的に生み出された緑は、美しい森になりました。緑道は四季折々だけでなく、1日また1日と姿を変えます。私はランニングでそれに気づき、泉北ニュータウンが大好きになりました」

 苅谷さんは「緑道ランニング」にのめり込んでいった。そしてフルマラソンはもとより、それ以上の距離を走るウルトラマラソンにまで出場するようになっていく。

 ちょうどその頃、行政の「ニュータウン再生」の動きが活発化していた。翌14年、堺市ニュータウン地域再生室が「泉北をつむぐまちとわたしプロジェクト」(略称・つむプロ)を始めた。「ニュータウンの魅力を再発見し、発信しよう」と住民に呼び掛ける事業だった。

 ニュータウンには、ある時期に同じような勤労世帯がまとまって移り住むので、年数が経つと建物の老朽化や、住民の高齢化が一気に問題化する。「泉北」も例外ではなく、堺市側の人口はこの10月末時点で、ピークの92年から約4万人減って約12万4000人になった。高齢化率は15年までの10年間で15.1パーセント上昇し、31.8パーセントになっている。このため「オールドタウン」と揶揄(やゆ)されることもある。

 市で「つむプロ」を担当する高松俊さん(33)は生まれも育ちも泉北ニュータウンだ。「オールドタウンなんて呼ばないでほしい。僕らにとっては愛着のある故郷です。建物は古くなっても、そこに住む人々の取り組みが新しければ、オールドタウンにはなりません」と話す。その思いのこもった事業だった。

 集まったのは住民約30人。「泉北」の魅力に目覚めた苅谷さんも加わった。参加者はグループに分かれてニュータウンや周辺の農村を歩き回り、「魅力発見」のワークショップを重ねていった。