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「NYにある退廃的なものに対応していく自分を歌いたかった」 没後30年、尾崎豊がコンサート前に“数珠”を握りしめた理由

「NYにある退廃的なものに対応していく自分を歌いたかった」 没後30年、尾崎豊がコンサート前に“数珠”を握りしめた理由

2022/05/13
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 4月25日は「卒業」「十七歳の地図」などの名曲で80年代に熱狂的なファンを醸成し、今なお支持され続けるロック歌手、尾崎豊の没後30年だった──。

 この4月に民法と少年法が改正され、成人年齢が20歳から18歳に引き下げられた。その18歳で音楽界にデビューしたのが、OZAKIだった。高校をドロップアウトした若者がTシャツ、ジーンズ姿で歌う自由への渇望と愛の追求は、わずか9年で終止符が打たれた。

 少年と大人の、正常と異常の「境界」を駆け抜けたアーティスト尾崎豊。尾崎へのオマージュを、4歳年上の精神科医で、「記者のち精神科医が照らす「心/身」の境界」のWeb連載を持つ、小出将則氏のForbes JAPAN Webの寄稿から転載する。(全2回の1回目。2回目を読む)

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デビュー当時から尾崎のファンだった筆者の末弟による鉛筆画

筆まめで趣味多彩、信仰心篤かった父

 1965(昭和40)年11月29日、東京・世田谷の自衛隊中央病院で尾崎豊は生まれた。大正生まれの父健一は陸上自衛隊事務官。母絹江は父と同郷(岐阜・高山)の、人付き合いの好きな俳句をたしなむ女性だった。

 健一は地元の実業学校を卒業後、営林署に勤めた。終戦直前に父(豊の祖父)を亡くし、戦後一級建築士になりたいと上京、夜間大学に通いながら職を転々とした後、発足直後の自衛隊に入り、定年まで勤め上げた。入隊後に絹江と結婚、長男康と5歳下の二男豊を授かる。

 特筆すべきは健一の筆まめだろう。豊が満2歳の元旦から父は日記をつけ始めた。自身の日記は若い頃からつけてきたが、豊と康の視点から、3冊を同時に書いている。

 豊は蝶が嫌いで水が苦手。2歳から保育園で「ブルー・シャトウ」の替え歌を♪森トンカツ、泉ニンニク♪と歌った。――豊の高校合格までつづいたこの日記がのちに、夭逝した彼の人となりを追うのに役立とうとは、当時父は夢にも思わなかっただろう。

題目のお勤めを唱題して育った

 健一は公務員という枠だけでは語れない人だった。仕事と並行して税理士や司法書士の勉強をし、最終的には社会保険労務士の資格を取り、豊が晩年に音楽事務所を立ち上げた際、手伝っている。

 趣味も多彩だった。短歌に尺八、琴。若い頃はバイオリンを習いたがった。空手の流派である躰道(たいどう)は自衛隊に勤めた関係で始めたようで、豊にも小学2年のころから教えた。「文武両道」がモットーだったが、「育児にかんしてはむしろ放任主義だった」と日記で振り返っている。

 信仰心の篤い仏教徒でもあった。豊が1歳の時に妻絹江が髄膜炎で生死をさまよい、妻の信仰する宗教に帰依した。以来、尾崎家の朝は題目のお勤めで始まり、豊も唱題して育った。

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