縁という御大層なものとはかけ離れてはいるものの、40年前早稲田キャンパス8号館の講義室で、尾崎豊の兄と同じ憲法や刑法の講義を聴いていたかもしれぬと思うと、フォークロックと呼ばれた尾崎の音楽の調べが、より耳のそばで聴こえる気がする。
現役高校生アーティストとしてデビュー
縁といえば、私の末弟は尾崎豊のデビュー当時からのファンだった。
尾崎家の兄弟の年齢差(5年)が小出家のそれと同じなのは偶然だが、1967年早生まれのうちの弟は、いわゆる校内暴力全盛期に中学時代を過ごした。
TBSテレビドラマ「3年B組金八先生」で荒れる学校がテーマとなったのがこのころ。管理教育からこぼれる生徒を表した「腐ったみかん」はその後、四流大学でうずくまる学生たちを描いた「ふぞろいの林檎(りんご)たち」に引き継がれていく。
私の弟は実家で父親との確執に飽いていた。
「つべこべ言わずに、親の言うことを聞けという態度が透けて見えた。大人はどうして間違いを認めないんだと、あのころは心底おもった」
進学校とは言えぬ地元の高校に入った弟は万引きやタバコ、バイク運転を見つかり、繰り返し停学を食らった。1学年上の尾崎豊も似たような理由で青山学院高等部を停学になった。この1983(昭和58)年の流行語が非行少女の家庭崩壊を描いた「積木くずし」だった。
豊の母親は、積木くずしに関わったカウンセラーに直接、相談をしている。だが、私の弟の場合と同じく、教科書的な上から目線の助言が功を奏することはなかった。豊は停学期間に書き溜めた歌を引っ提げて、現役高校生アーティストとしてその年の暮れにデビューした。
コロナ禍になるずいぶん前のこと。カラオケで弟の歌ったのがサードアルバム「壊れた扉から」収録の「Forget-me-not」(作詞・作曲 尾崎豊)。尾崎が20歳になる前日ぎりぎりに作った名曲だ。
♪君がおしえてくれた 花の名前は 街にうもれそうな 小さなわすれな草♪
野音ライブ、「飛び降り、骨折しつつ」叫び歌った……
尾崎豊の名を一躍とどろかせたのが、1984(昭和59)年8月の日比谷野外音楽堂でのライブだ。「アトミック・カフェ」の名で反核がテーマの音楽フェスティバル。半年前に出したファーストアルバムが2000枚程度だったので、まだ無名に近かった尾崎は演奏の途中、高さ7メートルの足場から飛び降り、足を骨折する。それでも、メンバーの肩車に乗って、♪自由って いったい なんだい♪(「Scrambling Rock'n' Roll 」作詞・作曲と叫んだ。
当時、私は新聞社に入ったばかりで、東京社会部での研修中だった。尾崎のこの事件は全く記憶にない。その後下町の警察担当となり、記者クラブで他の新聞、テレビ、通信社の先輩記者にもまれて取材力を磨いた。そこで一緒だったのが共同通信の西山明だった。