文春オンライン
「NYにある退廃的なものに対応していく自分を歌いたかった」 没後30年、尾崎豊がコンサート前に“数珠”を握りしめた理由

「NYにある退廃的なものに対応していく自分を歌いたかった」 没後30年、尾崎豊がコンサート前に“数珠”を握りしめた理由

2022/05/13
note

 後年、コンサートステージに上がる前、豊は数珠を握りしめて心落ち着かせたという。

尾崎豊関連書籍(すべて筆者蔵)

「氷の世界」「無縁坂」をつま弾いた小学生時代

 こうした父をもつ豊が音楽に目覚めたのは1976(昭和51)年、小学5年の時。東京・練馬から埼玉県朝霞市に引っ越した。転校先でいじめられ、不登校の時期もあった豊に、女性担任がギターを弾いてくれた。学校を休んだとき、両親が共働きのため誰もいない自宅で、兄のギターを押し入れから引っ張り出し、井上陽水の「氷の世界」や、さだまさしの「無縁坂」などをつま弾いた。

 その後、中学では転校前の練馬に越境通学し、かつての悪友たちと行動を共にした。中2の秋、友達が教師に叱られ、坊主頭にされて家出したのを深夜までつきあった。この事件がデビューアルバム「十七歳の地図」に収められた「15の夜」の歌詞につながっていく。

ADVERTISEMENT

 ここで豊の兄、康のことにも言及しておきたい。康と私には、あるつながりがあった。

「俺と同級生じゃねえか!」

 1960(昭和35)年、尾崎家の長男として康は東京で生まれた。

 父健一によると、一発型の豊と違い、コツコツ型の康は「毎日ハチマキをして夜中の二時まで(勉強を)やったので、中学では一番」だった。それが高校では「素行が悪く、あまり家に帰らなくなり、職員会議が7回も開かれ」たようだ。(見崎鉄『盗んだバイクと壊れたガラス 尾崎豊の歌詞論』)。

 1年浪人した康は早稲田大学法学部に入学。裁判所書記官を勤めた後、学習塾講師となり、現在は弁護士として活躍している。

 本稿を書くにあたり、私は尾崎豊関連書物を50冊ほど買い込み、「Rock’n Roll」と落書きされ黒光りする机の写真を載せた『尾崎豊 永遠の愛と孤独』などを読み込んだ。

 そのなかの一冊、康の『弟尾崎豊の愛と死と』を読んで、慄然とした。

 兄の視線から描いた、覚醒剤中毒にあえぐ弟の姿におののいたからだけではない。奥付の著者経歴欄に1984年早大法卒とあったからだ。──俺と同級生じゃねえか!

 当時の法学部はひと学年に千人以上いた。語学のクラス分けで別々になると、サークルやゼミで一緒にならない限り、同級とは分からない。しかも豊が新宿「ルイード」でデビューするのは、われわれが大学を卒業したまさにその月だった。

関連記事