能美市とシェレホフ市が交換している訪問団で相互の通訳を務めるのはもちろんのこと、能美市のロシア交流事業が豊富なのはブシマキンさんが企画に加わっているからだ。両市の意思疎通が順調なのも、間を取り持っているのがブシマキンさんだからだろう。
近年は金沢市、小松市、七尾市など、ロシアと交流している県内の市からの翻訳依頼だけでなく、県庁もブシマキンさんを頼ることがあり、石川県に欠かせない人材となっている。
「寒くて怖い国」というイメージ
ロシアで知り合った妻と結婚したのは、日本に来てからで、妻も県内の通訳として働くことがある。3人の子供は全員が日本生まれで、日本の学校に通っている。家ではロシア文化を学ばせているものの、一家の存在自体が両国の架け橋のようなものだ。
保育園や学校にロシア紹介の授業などで招かれることもあるブシマキンさんは、子供達を中心に人気がある。能美市内ではちょっとした有名人だ。
しかし、ロシアのウクライナ侵攻後、日本人のロシア人に対する視線は冷たくなった。「そもそもロシアには寒い、怖いというイメージがありました」と、ブシマキンさんは話す。
どうしてそのような印象が定着したのか。
「寒さ」については、多くの日本人がそう思っている。シベリアの冬は想像を絶するほどで、第二次大戦後に抑留された日本兵は多くが命を落とした。「一番寒い地区ではマイナス60度になることもあります」とブシマキンさんは言う。故郷のハバロフスクでも冬はマイナス30度になるのだという。
「ただし、夏はハバロフスクでも30度になります。広いロシアの中には鹿児島のように温暖で、冬でも氷点下にならない地区があります。冬季五輪が行われ、日本でも多くの人が名前を知っているソチもそうです。高所に行かなければ雪はありません。ロシアは一概に寒い国とばかりは言えないのです」
ウクライナ侵攻後の変化
「怖さ」については、いくつもの要因があるのだろう。ブシマキンさんは「ロシア人があまり笑わないのも理由の一つだと思います。ロシア人は本当に面白かったり、楽しかったりしないと微笑みさえしません。愛想笑いをすると、逆に『何がおかしいんだ』と誤解されることもあります。無表情だから怖いと言われることがよくあります」と嘆く。
歴史を振り返れば、日露戦争(1904~05年)があり、第二次大戦末期には旧ソ連軍が日ソ中立条約を破って侵攻した(1945年)。こうして両国の間では幾度もの戦争が起きた。戦後はアメリカの映画やニュースで旧ソ連の恐ろしさが強調されてきた面もある。
ウクライナ侵攻後は「プーチン大統領が怖いと言う人が増えています」とブシマキンさんは語る。
「でも、ロシアの一般市民にはいい人間がたくさんいます。私は住民交流でそのことを知ってもらいたいのです。能美市のロシア交流は、冷戦時代に平和のために始められました。森元町長がどのような思いで始めたのか。今こそ原点を再認識する必要があると思います。私も伝えたいことがいっぱいあるのですが、悪いことに新型コロナウイルス感染症の流行で、そうした場が激減してしまいました」
ブシマキンさんをさらに苦しめているのは、ロシア人社会の分断だ。