全国の自治体で最も活発なロシア交流を行ってきたのは石川県能美市だろう。

 最初に推し進めたのは森茂喜さん(1910~89年)。平成大合併で能美市になる前の旧根上(ねあがり)町長を9期も務めた人だ。

 国家体制が違い、「あまり快く思っていなかった」という旧ソビエト連邦の自治体と、わざわざ交流しようと考えたのはなぜなのか。背景にあるのは森元町長自身の苛烈な戦場体験と、「二度と戦争をしてはならない」という思いだった。平和を求めるには、高い国境を超えて、人と人とが友情で結ばれるべきだという信念があったのである。(全3回の2回目/#3に続く

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森元町長の“過酷な戦争体験”

 森元町長はどのような戦争体験をしたのか。これを知るには格好の資料がある。本人の没後、地元住民らで作る伝記刊行委員会が出版した『おつぶけ町長 森茂喜その人と足跡』という著作だ。「おつぶけ」とは加賀弁で正座を意味する。まじめな人柄で、いつも正座をしていた森元町長は、人々に「おつぶけ町長」と呼ばれていた。

 早稲田大学の専門部を卒業後、石川県庁で働いていた森元町長が、陸軍少尉として応召したのは1937年10月のことだ。既に日中戦争が始まっており、広島市の宇品(うじな)港から、中国の上海に上陸して、前線を目指した。

 最初に遭遇した激戦は、蘇州河を渡る戦闘だった。

シェレホフ市の名誉市民になった旧根上町の森茂喜元町長(能美シェレホフ親善協会の記念誌より)

 現地ではコレラが流行し、治療もされないまま放置された兵士が、小屋でのたうち回るなどして苦しんでいた。その近くの川で、決死の工兵隊が橋を架けていた。中国兵が対岸から集中砲火を浴びせかける。工兵は被弾しているはずなのに、川に落ちたり、流されたりしなかった。実は、銃撃されても川に落ちないよう、橋に体をくくり付けて作業をしていたのだった。

 人柱のような架橋でなんとか川が渡れるようになると、今度は歩兵の番だ。だが、中国兵の集中砲火に一歩も進めない。工兵隊長が「歩兵は工兵を見殺しにするのか」と泣いて叫ぶと、歩兵が突撃を始めた。「即死する兵隊、倒れる兵隊、撃たれて川の中で真っ逆さまに飛び込む兵隊、踏み外して落ちる兵隊、これまた橋の上は地獄だった」となど伝記には書かれている。

左の大腿部を機関銃に射撃され……

 この戦闘の後、森元町長は小隊長に任じられて、先に金沢から派遣されていた中隊に加わる。しかし、その中隊は日本を出発した時の要員196人が18人にまで減っていたと知り驚いた。

 後年、森元町長が「人間と人間が相打つ凄惨な肉弾戦だった」と回想するような激しい戦闘が続いていたのだった。それでも部隊は侵攻を続け、当時の中国の首都が置かれていた南京の攻略戦に取り掛かる。

 激しい戦いとなった。地雷源で人が吹き飛ばされるような現場もあった。南京は城壁で囲まれた城砦都市になっていたのだが、戦意を失って城内へ逃げ込もうとする中国兵がいると、退却させまいとする中国の部隊が味方を射撃する場面もあった。

 森元町長は左の大腿部を機関銃に射撃される。銃弾は貫通せず、体内に残ったが、手当てをしただけで戦闘を続けたという。