そして城門への突撃。最初に突入した大隊は、一番乗りとなった中隊が中国軍の射撃でほとんど全滅したとされる。
森元町長の隊はやや遅れて攻め入った。この時、自身の伝令役として同行させていた初年兵を失った。戦闘の後、姿が見えなくなっているのに気づいて捜索したが、砲弾の爆発で地形が変わるなどしていたため、遺体はなかなか見つからなかった。
1週間ほどの探索の最終日に発見された初年兵は壕の中で倒れていた。担いでいた背負い袋には、戦闘の合間に摘んだのだろう、菜っ葉がいっぱいに入れてあった。野菜好きな森元町長に食べさせようと集めていたらしい。森元町長は遺体を前にして涙を抑えられなかった。
「皆、決死隊になって突撃してくれ」
至る所に「東洋鬼」などと日本軍をなじる落書きがあった南京市街を後にして、部隊は別の土地の警備に移る。森元町長は「首都南京の攻略が終われば帰国できる」と思っていたが、それほど甘くはなかった。戦争は長引き、徐州作戦、武漢作戦と戦闘が続く。途中でマラリアにかかり、40度近い高熱にも悩まされた。
武漢作戦では、手榴弾を投げながら突進し、壕に飛び込んで中国兵と格闘するという壮絶な戦いになった。森元町長も「皆、決死隊になって突撃してくれ。ワシと一緒にここで運命を共にしてもらいたい」と訓示するほどの局面があった。
中国軍に包囲されて弾薬が切れ、補充のために決死隊を出したこともある。その決死隊が弾薬を調達して戻った時、森元町長らが潜んでいた壕は白く見えたという。中国軍に迫撃砲を次々と撃ち込まれ、戦死者や負傷者が巻いた包帯で白く見えたのだった。
銃弾が補充されると、突進してきた中国軍に機関銃で猛反撃した。中国兵は遺体をそのままにして退却を余儀なくされたが、そうした遺体のうち小隊長の荷物を調べさせたところ、1通の手紙が出てきた。親が戦場の息子を思いやる文面だった。「敵」にも温かい家族があったのだ。森元町長は戦後、この時の様子を思い出しては話していたという。
このような戦いを重ねるうちに、ついに森元町長も砲弾で重傷を負った。
心臓の近くに破片を残したまま
中隊長代理に昇進していた森元町長が、中隊幹部を集めて打ち合わせをしていた時のことだ。近くに迫撃砲弾が着弾し、左肩から胸にかけて破片が突き刺さった。
血だらけになった森元町長は、銃弾が飛び交う中、部下によって自動車が走る道路に運ばれた。通りがかった車で野戦病院へ運ぼうとしたのだが、どの車も負傷者でいっぱいで、なかなか搬送できなかった。
傷は簡単には治せなかった。内地送還となり、退院までには1年ほどかかる。心臓の近くに破片が二つも刺さっていた。取り除く手術には命の保障がなかったので、そのまま生涯を送ることになった。このため後遺症が残り、腕がしびれたり痛んだりしたようだ。
それほどの重傷を負ったのに、迫撃砲による傷が癒えると、森元町長は再び戦地へ戻った。中尉に昇進して中隊長に任命され、1940年10月に旧満州へ渡った。