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 戦況は悪化した。このため旧満州の部隊のうちから南方の守備に移された。森元町長の隊も対象に選ばれ、1944年4月にトラック諸島(現在のミクロネシア・チューク諸島)へ向かった。輸送船は米軍の魚雷攻撃にさらされ、多くが兵士を乗せたまま太平洋で撃沈された。運良く上陸できた隊も、サイパンの守備隊は米軍の攻撃で玉砕することになる。

1960年の訪ソが転機になった

 森元町長の船にも魚雷が当たったが、不発弾だったので、沈没を免れた。

 トラック諸島の守備に着いた森元町長は大隊長に昇進した。米軍が上陸して来れば、玉砕するしかない。覚悟を決めて、地下壕の構築などに精を出した。食料が不足し、兵はトカゲからネズミまで食べたという。

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 結局、米軍は空襲することはあっても、サイパンのようには上陸して来なかった。森元町長は命を長らえて、復員を果たした。

 森元町長の体内には、心臓の近くに刺さった砲弾片を含めて「砲片7個が残ったままだった」と、息子の森喜朗・元首相が自身の著書『私の履歴書 森喜朗回想録』で明らかにしている。

旧満州で中隊長時代に撮影された森元町長(前列右、伝記「おつぶけ町長」より)

 森元町長にとって、戦争は人生を決定づける出来事だった。戦死した戦友や部下の名前を名簿にし、背広の胸にいつも入れていたという。

 そうした森元町長に転機が訪れた。1960年の訪ソだ。

「日本海を平和な海にする」

 旧ソ連国境に近い旧満州へ駐留した経験などから、あまりいい対ソ感情を持っていなかったという森元町長だが、モスクワで開かれた「日本産業見本市」でロシア人が日本国旗に対して見せた厳粛な態度に驚き、さらにはシベリアに抑留されて亡くなった元日本兵の墓がイルクーツクやハバロフスクできれいに清掃されているのに感動した。その経緯は#1で書いた通りだ。

 森元町長に誘われてロシア交流に関わることになる能美シェレホフ親善協会の高田龍藏理事長(79)は「あの時、ロシア人は友情に厚い人々だと感じたようです。日本海を平和な海にすることが、戦争から生きて帰って来た者の使命だ。『友情に国境なし』と考えるようになったと、熱く説いていたのを思い出します」と話す。

 前出の伝記本には「日本海を隔てて向かい合う両国の相互理解こそ、日本の平和につながるから、我々が活動しなければならない」という森元町長の言葉が紹介されているほか、「日本とソビエトがけんかをして不幸な状態になれば、日本国民の破滅だ。思想信条、社会制度や政治体制は違っていても、その人達と仲良くしなければ日本の平和はない、というのが森町長の持論、信念だった。それが自民党員でありながら日ソ協会を通して日ソの友好運動に飛び込んだ理由だった」などと解説されている。

 まず親交を結んだのは、シベリア抑留者の墓があるイルクーツク市のサラッキー市長だ。同市長はやはり元軍人で、戦傷を負った経験がある。その点、森元町長に通じる思いを持っていたようだ。