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「どこにいても日本との架け橋であり続けたい」
ブシマキンさんには、いいことだけを伝えようとか、悪いことだけを伝えようという考えはない。長い歴史の中では、様々なことが起きるからだ。
例えば、日露戦争ではロシアの捕虜約6000人が金沢へ収容された。その時に金沢市内の写真館がロシア兵の集合写真を撮影したのだが、これが2018年に写真館の子孫によって発見され、撮影された捕虜の子孫を探し出して交流が始まった。ブシマキンさんは通訳などとして手伝いをしている。
「日露戦争下の金沢を舞台に、ロシア人将校と芸妓の恋を描いた五木寛之さんの『朱鷺(とき)の墓』という小説もあります」と、日本文学通のブシマキンさんが紹介する。
ロシア革命(1917年)に際しては、革命後の内戦に追われてシベリアまで逃げ延びた子が約800人もいた。この子らを救出し、親元に帰したのは日本の貨物船だった。その船長の子孫を探して手記を発見したのは能美市内の書家だ。ブシマキンさんは今年度制作する旧2町の紹介動画で取り上げようと考えている。
「ロシアを遠く感じている人がいるかもしれませんが、実際には日本の隣国で、歴史的にも重なり合う部分が多くあります。そうした中には、戦争など不幸な歴史もありました。しかし、人と人が心を通わせる出来事もたくさんあったのです。
ロシア人は一度知り合ったら生涯友達でいたいと考えます。私もそうです。もしかすると、今回の戦争を機に日本にはいられなくなるかもしれません。でも、どこにいても日本との架け橋であり続けたいと思います」
ブシマキンさんは、そう結んだ。
撮影=葉上太郎