「放送作家」という職業を見聞きしたことはあっても、その仕事内容について、具体的に説明できる人は多くないだろう。はたして彼らはどんな仕事をしているのか。そして、放送作家がテレビ・ラジオ界に与えてきた影響とは……。
ここでは、社会学者の太田省一氏が、歴史に名を刻む放送作家の実像に迫った著書『放送作家ほぼ全史 誰が日本のテレビを創ったのか』(星海社新書)より一部を抜粋。タモリを世に送り出した放送作家、高平哲郎氏の才覚について紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)
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高平哲郎とタモリの「密室芸」
ビートたけしと並び、「お笑いビッグ3」のひとりであるタモリ。そのタモリにも、やはり縁の深い放送作家がいる。高平哲郎である。
高平は、1947年東京生まれ。景山民夫(編集部注:『11PM』『クイズダービー』『タモリ倶楽部』などの番組を手掛けた放送作家)とは、同じ中高に通っていた。一橋大学社会学部を卒業後、広告代理店の博報堂に入社してコピーライターに。同時に出版社の嘱託として本や雑誌の編集にも携わった。博報堂退社後は、雑誌『宝島』の創刊にかかわるなど、編集者・ライターとして活躍していた。
そして1970年代中盤、高平はタモリと出会う。当時新宿・歌舞伎町に「ジャックの豆の木」というスナックがあった。ある日、高平はその店に行かないかと友人から誘われる。福岡でジャズピアニストの山下洋輔が出会った謎の男が顔を出すという話だった。
タモリのマネージャー役を引き受けることに
「タモリ」と呼ばれるその男は、高平ら店の常連たちの前で、次から次へと奇妙な芸を繰り出した。後に有名になったイグアナの物真似、NHKラジオ『ひるのいこい』のパロディを絶妙に演じたかと思えば、ターザンが中国語やドイツ語のデタラメ外国語で雄叫びをあげるというネタ、さらに同じくデタラメ外国語でアメリカ人と中国人と韓国人、そしてルールを覚えたてのベトナム人が麻雀をして大ゲンカになるという「四か国親善麻雀」など。それらはどれも、いままでほかでは見たことのないようなものだった。
これが、高平哲郎とタモリ、そして後に「密室芸」と名づけられるその芸との出会いだった(高平哲郎『ぼくたちの七〇年代』、136‐140頁)。タモリは、このスナックの常連のひとりだった漫画家・赤塚不二夫にたちまち気に入られ、その伝手でテレビにも出るようになる。そして高平は、世間の注目を集めるようになったタモリのマネージャー役を引き受けることになった(同書、144‐145頁)。