おニャン子クラブ、AKB48、乃木坂46など、時代を象徴すると言っても過言ではない数々のアイドルグループを世に送り出してきた秋元康氏。現在は作詞やプロデュースなど、肩書を一言で言い表せない活躍を続けている同氏だが、放送界に足を踏み入れた際の肩書は“放送作家”だった。秋元氏は、そこからいったいどのようにして、仕事の幅を広げてきたのか。
ここでは、社会学者の太田省一氏がテレビ・ラジオ界を支え続けた放送作家達の姿を紹介した『放送作家ほぼ全史 誰が日本のテレビを創ったのか』(星海社新書)の一部を抜粋。秋元康氏の築き上げてきたキャリアを追う。(全2回の1回目/後編を読む)
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放送作家・秋元康の誕生
アイドルとテレビの蜜月時代が始まった1970年代。そして1980年代になると、アイドルは、テレビのなかにごく当たり前に存在するものになった。松田聖子や中森明菜、そして小泉今日子など人気女性アイドルが次々登場したかと思えば、ジャニーズからも、田原俊彦、近藤真彦、野村義男の「たのきんトリオ」がブームを巻き起こし、さらにシブがき隊や少年隊も後に続いた。「アイドル」という言葉の定義には曖昧な部分もあるにせよ、少なくともなんとなく「アイドルとはこういうものだろう」という世間のイメージが、そうしたアイドルたちを通じて出来上がっていった。
当時社会現象を巻き起こしたおニャン子クラブが歌う楽曲の作詞を一手に引き受けた秋元康は、そんな1980年代のアイドルシーンを担ったキーパーソンのひとりだ。さらに秋元は、ご存知の通り、時を隔てて2000年代以降、AKB48とその姉妹グループ、さらに乃木坂46など坂道シリーズの作詞・プロデュースで再度大きな成功を収めた。日本のアイドル史を語るうえで、欠かせない存在である。
その秋元康も、スタートは放送作家からだった。
秋元は、1958年東京都目黒区生まれ。小学校低学年で、同じ東京の保谷市に引っ越した。少年時代は、将来は東京大学に入り、そこから大蔵官僚になることを目指していたという。しかし、私立の進学校として有名な開成中学の受験に失敗。公立中学を経て、高校は中央大学付属杉並高校に進学した(『MusicMan』2010年11月17日付けインタビューなど)。