52週中36週でおニャン子クラブ関連の曲が1位に
始末書どころの騒ぎではないが、こうしたことも、逆に彼ららしいハプニングとしてとんねるずの人気に拍車をかけた。その後も秋元康ととんねるずは放送作家と演者の立場でタッグを組み、長寿番組となった『とんねるずのみなさんのおかげです。』(フジテレビ系、1988年放送開始)などの番組をともにつくっていくことになる。
『オールナイトフジ』からは、もうひとつ秋元康の運命を変える出来事が起こった。『オールナイトフジ』の成功を受け、番組スタッフがスピンオフとして企画したのが、『オールナイトフジ女子高生スペシャル』である。これもまた好評で、この番組をベースに夕方の帯番組が企画され、スタートする。それが、おニャン子クラブの出演する『夕やけニャンニャン』(1985年放送開始)だった。ここでも秋元康は企画の立場で番組にかかわった。
番組内では、おニャン子クラブ新メンバーを選ぶオーディションコーナー「アイドルを探せ」も放送された。その審査員でもあった秋元は、おニャン子クラブの本体、さらには派生ユニットやソロデビューするメンバーの楽曲の作詞を一手に引き受けた。それらは圧倒的なおニャン子ブームにも後押しされ、軒並みオリコンチャートの1位を獲得。1986年に至っては、なんと全52週中36週でおニャン子クラブ関連の曲が1位になった。その頃の秋元康は、自分のことをよく自虐的に「おニャン子成金」と呼んでいた。
映像イメージから詞を生み出す秋元康
そもそも、秋元康の作詞家デビューは、1981年のことである。曲は、アニメ『とんでも戦士ムテキング』(フジテレビ系、1980年放送開始)の挿入歌「タコローダンシング」。プロフィール上は、同年発売のAlfee(現・THE ALFEE)のシングルのB面「言葉にしたくない天気」になっているが、それはそちらのほうが「かっこいい」と秋元自身が考えたためだったという。
飛躍のきっかけになったのは、翌1982年発売の稲垣潤一「ドラマティック・レイン」である。これがオリコン週間シングルチャート8位を記録し、秋元康にとっても初のヒット曲となった。続けて、秋元がラジオ番組の構成を担当した縁で親交のあった長渕剛の「GOOD‐BYE青春」(1983年発売)もヒットし、作詞家として軌道に乗り始めた。
同じく1980年代、歌謡曲の作詞家として一世を風靡した松本隆は、自分の詞を「小説的」とする一方で、秋元康の詞を「映像的」と評した(前掲『秋元康大全97%』、19頁)。