自分の詞が映像的な理由として、秋元は、自分が「テレビ番組の構成台本作家を経ていること」を挙げている。1970年代から1980年代にかけて人気だった音楽番組『ザ・ベストテン』の放送作家のひとりであった彼は、「売れる歌というのはセットが作りやすい」、すなわち「視覚的なイメージを喚起しやすい」と感じていた(同書、19頁)。
「テレビっ子」第一世代に結びつく側面
実際、初期の秋元康は、詞を映画のようにイメージしていた。たとえば、喫茶店にいる恋人同士が主人公だとすれば、まずカメラが喫茶店を映し出し、2人のアップに移動して、また外の風景に行く。また「ドラマティック・レイン」であれば、「今夜のおまえは ふいに 長い髪 ほどいて」といったフレーズも、視覚を刺激し、場面の映像が浮かぶようなものであり、そんなふうに映像のイメージをそのまま言葉にしていた(同書、19頁)。
また、秋元康本人が言うところでは、彼は、歌詞は書くが、小説は書けない。直木賞を受賞したなかにし礼のように作詞家から作家になったひともいるが、秋元にはそれが難しい。それは、テレビのようなマスメディアの場で仕事をしてきたため、小説のように自分自身が色濃く投影されるものより、まず多くのひとに認知されるものを考えることが自然に身についてしまっているからだと言う(同書、20頁)。
このあたりは、世代的な背景もありそうだ。1960年代の草創期の放送作家たちは活字世代である。それゆえ、文筆活動への憧れも強く、実際野坂昭如や井上ひさしなど、多くの放送作家が小説家に転身していった。なかにし礼も1938年生まれで、彼らに近い。それに比べ、1958年生まれの秋元康は、生まれたときにすでにテレビがあった世代、いわゆる「テレビっ子」第一世代である。結局、歌詞が「映像的」というところに関しても、そうした世代的なものに結びついている側面が背景にあるだろう。
「企画者」という秋元康の本質
放送作家としての秋元康は、実は青島幸男の孫弟子にあたる。先述の師匠・奥山侊伸が、青島の弟子だったからである。
そういう目で見ると、2人には似ているところも感じられる。秋元康にとんねるずがいたように、青島幸男にはクレージーキャッツがいた。とんねるずもクレージーキャッツも、ともにバラエティ番組を中心に活躍するコメディアンであると同時に、歌手としてもヒット曲を連発した。そしてその詞を、それぞれ秋元康と青島幸男が書いた。