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 クレージーキャッツが高度経済成長期、とんねるずがバブル景気の頃と、活躍した時代はもちろん違うが、歌詞のテイストにも重なるものがある。

 基本は、遊びの精神だ。クレージーキャッツが歌う青島幸男の詞も、とんねるずが歌う秋元康の詞も、遊び心であふれている。植木等が、高度経済成長期の日本人の生真面目さや勤勉さをからかうように「無責任」を高らかに、そして陽気に歌い上げたとすれば、とんねるずは、バブル景気の軽さがもてはやされる時代のなかで、パロディ精神にあふれた曲を次々と世に送り出した。「雨の西麻布」(1985年発売)は演歌のパロディ、「ガラガラヘビがやってくる」(1992年発売)は童謡のパロディ、一見真面目な「情けねえ」(1991年発売)も長渕剛のパロディだった。

 言い換えれば、既成の常識に対してなにか仕掛けていくという共通点が、青島幸男と秋元康にはある。

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秋元康氏 ©文藝春秋

どのような詞を歌わせれば、多くのひとに支持されるのか

 ただもう一方で、違っているところもある。青島がタレントとなって自ら表舞台に出ていったのに対し、秋元は決して演者にはならず、終始黒子に徹している。秋元本人によれば、なにか面白いことを考えて誰かにやらせて楽しむ「フィクサー的」ポジションを好むのは、中学時代から変わっていないという(同書、15頁)。

 時代に対して仕掛けつつ、自分が表に立つポジションにはつかない。その点について、秋元康は、こう自己分析する。「僕が17歳の時の構成台本作家から始まって一貫しているのは、まずゲリラであるということなんですよ。それと、思いつきがベース。思いつきだけは天才的だと思う。多分僕が一番向いている職業は、「詐欺師」とかよく言っているけど、「企画者」なんですよ」(同書、20頁)。

 企画者であるという点には、阿久悠との共通点が見出せるだろう。阿久が、CMをつくるのと同じ要領で歌謡曲の詞を考えていたことは、前に書いた。それは結局、歌詞をひとつの企画と考えるのと本質的には同じことだろう。ある歌手に、どのような詞を歌わせれば、それがより多くのひとに支持されるのか? そのコンセプトを決めることから、作詞は始まる。それは、先述のように、秋元康が常に「マス(大衆)」を念頭に置いているということとも通じている。

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