1980年代に「女子アナブーム」を巻き起こし、テレビの黄金時代を担った長野智子さんと永井美奈子さんが、映像メディアの舞台裏を語りつくす。司会は、日本テレビでプロデューサーを務めた吉川圭三さん。女性アナウンサーのセカンドキャリアに迫る。(全2回の2回目。#1を読む)

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「本当に自分のやりたいことじゃない」という逃げ

吉川 長野さんは、「ひょうきんアナ」として全国的に知名度を得て、永井さんは「24時間テレビ」の総合司会を担当された後、お二方ともフリーアナウンサーへと転身します。その決断を振り返って、いかがですか?

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長野 結婚して会社を辞めたのは27歳の時でした。そこからフリーアナウンサーとして、バラエティの仕事をたくさんいただきました。華やかで楽しくて、やりがいもありました。

 ただ、これまでフジテレビの長野智子として、全力投球してきたんですが、「フジテレビ」が取れて、ただの「長野智子」となると、出演している芸人の方と同じポジションになる。彼らは、人生をかけて戦っている。報道をやりたかった私の場合はどこかに、「本当に自分のやりたいことじゃない」という逃げがあって。そんな風に考えている自分に嫌気がさしてきたんですね。

長野智子さん(右)と永井美奈子さん(左)

夫の海外転勤で6年間ニューヨークへ

永井 局アナ時代は、司会の役割が多かったので、ひな壇に芸人さんやタレントさんと並んだことがなかった。フリーとして同じ立場になって感じたのは、「腹のくくり方が違うな」と。みなさんは、「生きるか死ぬか」で芸能界に飛び込んできている。就職試験を受けて会社員として、この仕事をスタートしている私は甘いな、と痛切に感じました。

「笑っていいとも!」のレギュラーの仕事をいただいたことがあったんですが、どこにも自分の居場所がなくて、「居た堪れない」とずっと考えていました。「ギャランティを頂いているのにごめんなさい」って。

長野 テレビ局の看板の大きさを、フリーになった瞬間に感じますよね。そして32歳のときに、アメリカに行く決断をしました。

永井 あの決断には驚きました。

長野 夫が海外転勤で6年間、ニューヨークに行くことになったんです。彼は日本に残って仕事を続けていいと言ってくれたのですが、報道という目標に挑戦する最後のチャンスだ、と。すべての仕事を断って、渡米を決断しました。海外赴任が終わる6年後が2001年と聞いて、「21世紀になって戻ってきたら、私のことを誰も覚えていないだろうなぁ。でも今よりも自分自身を好きになっているはずだ」と、思いながら。

永井 ニューヨーク大学大学院で学んでいた長野さんに会いに行きましたよね。

長野 そうそう。一緒に食事をしていろいろ話したよね。