長野さんのすっぱり仕事を辞めて渡米した決断も、凄かった。でもそこで充電したことが次のステップに繋がりましたよね。
吉川 日本に帰国する決断はどんなタイミングだったのですか?
長野 テレビ朝日の方がわざわざニューヨークまで来てくれて、「ザ・スクープ」のキャスターのオファーをしてくださったんです。報道の仕事をするために勉強していたので「キター」って、夫を置いて帰国しました(笑)。
永井 そこから「報道ステーション」や「サンデーステーション」など、まさに報道を舞台に戦ってこられましたよね。
「女子アナ」と呼ばれて。
吉川 ジェンダー問題が、きちんと議論される時代に、お二人は、「女子アナ」と呼ばれていたことをどう感じますか?
長野 私がフジテレビに入社した翌年くらいから、女性アナウンサーが大勢出演する「女子アナスペシャル」といった特番が組まれるようになりました。
永井 「女子アナ」と言えば、フジテレビのアナウンサーたちを指す言葉でした。私が日本テレビに採用されたときに、「フジテレビっぽい人材が欲しかった」と言われました。内定の調印式の時には「君を採ったのは冒険だった」とも(笑)。フリーアナウンサーになってからも、「フジテレビ時代にね」と声をかけられることも多くて。私は日テレなんですけれど(笑)。
吉川 プロデューサーの立場から言うと、永井さんに司会をしてもらうと、番組に華やかさが増すんです。かつ、出演者のいい面を引き出す能力も抜群でした。ビートたけしさんは、いつもご機嫌でしたからね。今の時代、こういった表現で評価することはダメかもしれないですが……。
アナウンサーをタレントのように売り出した時代
永井 吉川さんの小説『全力でアナウンサーしています。』の帯には「30歳限界説」「アイドル化」「結婚」と書かれていて、「女子アナ」の存在について、論考されていますね。
吉川 現役のアナウンサーや、アナウンス学校で教鞭をとっている方にも話を聞いて、「女性アナウンサーの今」について書きました。
長野 「かわいさを武器に隣で座っていたらいい」という女性アナのステロタイプをテレビ局が生み出しているとの批判があると思います。それを踏まえたうえで、誤解を恐れずに言うと、テレビ局が自社の社員であり、地味な職種であるアナウンサーを、ある種タレントのように売り出した。そのことを時代が新鮮に受け止めた。私も局の顔として、いろんな方に知ってもらって、いろんな仕事に繋がった。テレビというメディアも成長していった。私たちの時代では、ある種「WIN-WIN」の部分もあったと思うんです。あっ永井さん、同じ時代にしてごめんね。