1980年代に「女子アナブーム」を巻き起こし、テレビの黄金時代を担った長野智子さんと永井美奈子さんが、映像メディアの舞台裏を語りつくす。司会は、日本テレビでプロデューサーを務め、『全力でアナウンサーしています。』を刊行した吉川圭三さん。涙と笑いにあふれた女性アナウンサーの真実に迫る。(全2回の1回目、#2へ続く)
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「報道」を志すようになったきっかけ
吉川 このたびは、お集まりいただきまして、有難うございます。本日はテレビの黄金時代を担ったお二人に、映像メディアの光と影、いや、涙と笑いについて語っていただければと思います。
永井 数多くのヒット番組を手掛けた吉川さんの司会でしたら、安心してお話しできます(笑)。私は、ここにいらっしゃる長野智子さんが憧れの存在でした。川島なお美さんなどを輩出したミスDJリクエストパレードのラジオパーソナリティから、85年にフジテレビに入られたんですよね。
長野 えっ、ミスDJのことを知っていたの(笑)。当時はミスDJといっても私は話題にもならない存在だったからそんな華やかなイメージとはほど遠かったのですが。
永井 フジテレビの採用担当の方も知っていたと思いますよ。入社当初から報道志望だったのですか?
長野 入社の際はまったくの白紙でした。最初は「夜のヒットスタジオ」のリポーターを担当していたんですが、85年8月に「日本航空123便墜落事故」があって、新人の私も取材に駆り出されました。このときから、「報道」を志すようになったんです。
鼻濁音のある自分の姓を恨んだ
永井 その思いとは裏腹に、「ひょうきんアナ」への道を……。
長野 当時、上司だった露木茂さんに、「報道をやりたいんです」と伝えていたんですが、そうしたら、天気予報を経て、今の「めざましテレビ」の枠で、川端健嗣さんとともに、メインの司会を担当させてもらうことができました。このまま報道の道を歩んでいけるかな、と思っていたら、入社2年目に、「長野、秋から『ひょうきん族』だから」と言われて。
永井 突然ですよね。その理由は説明をうけたのですか?
長野 プロデューサーの横澤彪さんから「朝の番組で踊る天気予報、というコーナーを担当していたのをみて『こいつは面白い』と思った」から、だと。
永井 あの頃、「女子アナ」と言えばフジテレビでしたから、私もフジの入社試験を受けたんです。ところが露木茂さんに落とされてしまって(笑)。「はい、自己紹介して」「永井美奈子と申します」と答えた瞬間に、「『が』は鼻濁音なんですよ」と。今では笑い話になっていて露木さんにも可愛がっていただいていますけれど。
長野 私も入社前は、アナウンス研修なんて受けていなかったよ。
永井 長野さんはきっと、「が」が発音できたんですよ。私は、鼻濁音のある自分の姓を恨みました(笑)。