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「必死になって戦って勝つ姿を、お客さんは見て喜ぶんだ」

 静謐のなかにも凜とした正義感を漂わせた坂井の言葉に対し、去りゆく西川は隣でじっと耳を傾けていた。新旧球団トップの間には微妙な距離があった。隣り合っていても言葉を交わすことはなかった。大島派と小山派の代理戦争を想起させるその光景に、私はまだ冬が到来したばかりの夜に西川と交わした言葉を思い返していた。

「落合のことは私とは関係ない。もし私がいなくなっても、次に就任する社長がどう判断するか─」

 あのとき西川はすでに知っていたのではないだろうか。自らの退任についてはもちろん、新しい球団社長として誰がやってくるのかについても─。

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「ファンを大事にしなくてはいけません」

 番記者、地元テレビ局のカメラを前に、新しい球団社長は繰り返した。

 西川の鷹揚さとは対照的に、抑制の利いた諭すような口調だった。まだ球団の内情を知らないはずの人物にしては明確な使命感を帯びていた。

 いつだったか、落合がファンサービスについて語ったことがあった。

「よくファンのために野球をやるっていう選手がいるだろう? あれは建前だ。自分がクビになりそうだったら、そんなこと言えるか? みんな突きつめれば自分のために、家族のために野球をやってるんだ。そうやって必死になって戦って勝つ姿を、お客さんは見て喜ぶんだ。俺は建前は言わない。建前を言うのは政治家に任せておけばいいんだ」

落合博満氏 ©文藝春秋

 私はそれが落合の生き方を象徴する発言のような気がして、ノートに書き残した覚えがあった。坂井とは対照的な言説だった。

ダグアウトの奥から現れたバッター

 中日の球団社長が交代したという記事は、翌日の朝刊紙面の片隅に小さく掲載されただけだったが、私は終わりに向かって大きな流れが動き出したことを感じていた。多くの者にとっては何の変哲もなく、時とともに忘れ去ってしまうような一瞬でも、ある者にとっては生涯の記念碑になることがある。

 被災地に仮設住宅が建ち並び、街がわずかに生活の匂いを取り戻し始めた2011年の初夏、小林にそんな瞬間が訪れた。

 梅雨明けのナゴヤドームだった。広島カープとのデーゲームは3点をリードされたまま中盤に入っていた。小林はベンチ裏のブルペンに待機していた。いつものように、ゲームの半ば過ぎに巡ってくるであろう出番に備えて、試合状況を映し出すモニターを見つめていた。プロ9年目を迎えた左のワンポイントリリーバーは、このシーズンもパズルのピースとして一軍に必要とされていた。

 広島は6回表にランナーを2人出した。相手ベンチから監督の野村謙二郎が立ち上がった。それに呼応するように真っ赤なレフトスタンドからは歓声が上がり、ダグアウトの奥からひとりのバッターが現れた。