プロ野球史上最高の右打者と称されることも多い落合博満氏。天才肌の選手として数々の功績を残してきた男の監督就任が噂され始めたのは2003年のことだった。シーズン中に解任された山田久志監督の後釜となるのは誰なのか。スポーツ新聞の記者だった鈴木忠平氏は上司から落合邸へ直撃取材するよう指令を受けたのだが……。

 ここでは同氏の著書『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』(文藝春秋)の一部を抜粋。中日ドラゴンズ落合博満監督が誕生する直前の記者とのやり取りのもようを紹介する(全2回の1回目/後編を読む)。

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落合に対する、どこか他人事の、ぼんやりとした期待

 2003年10月3日の朝、東京の空は晴れていた。白い雲間からのぞいた青の下で、私は見知らぬ町の、見知らぬ家の前に立っていた。

 そこは落合博満の邸宅であった。

 当時はまだ、スポーツ新聞の駆け出し記者だった私が、落合という人物に対して抱いていたものといえば、「三冠王」「オレ流」という漠然としたイメージだけだった。他にあるとすれば、かれこれ1カ月も続いている中日ドラゴンズの新監督をめぐるストーブリーグにこれで終止符が打たれればいいのだが……という、どこか他人事の、ぼんやりとした期待だけだった。

 このシーズン、中日の監督は元阪急のエースとして知られた山田久志だったが、チームが5位に沈んだ9月上旬に続投方針から急転、解任された。そこから新監督人事をめぐる報道合戦のゴングが鳴ったのだった。

©文藝春秋

 新聞紙面には、まず高木守道、牛島和彦という球団生え抜きOBの名前が本命として挙がった。ただ、そこからなかなか決定には至らず、幾人かの候補が浮かんでは消え、中日の新監督問題は長期化していった。

 そんな中、この5年前に現役を引退し、そのあと野球解説者として在野にいた落合の名も候補の一人として挙げられていた。

落合邸には自分の意志で来たわけではなかった

 私は見知らぬ住宅街のアスファルトの上で汗を拭った。10月の風は熱を含んでいなかったが、1時間近くも寝過ごした焦りからか、あるいは小田急線の駅から何度も迷いながら歩いたせいか、落合邸にたどり着いた頃には、首筋から背中がじっとりと湿っていた。

 新聞社に入って4年目、朝はきちんと起きられたためしがなかった。いつも倦怠感とともに慌ただしく一日が幕を開け、誰かに決められた場所へ行き、誰かに言われたように原稿を書き、自分で歩いている実感のないまま、いつの間にか夜がきていた。

 この日もそうだった。落合邸には自分の意志で来たわけではなかった。

『落合さんが中日の監督になるという話を聞きました。それを書かせていただきます。今日はその仁義を切りにきました』

 それだけ伝えてこい─。名古屋本社の編集局に鎮座するデスクから指令を受けたのは前日の午後、夕刻近くになってからのことだった。すぐに名古屋駅に向かい、上りの新幹線に乗り、都内のホテルに投宿した。そして24時間も経たないうちに、まだ会ったことのない男の家の前に立っていた。