前田の代わりにやってきたのは…
前田は対戦を重ねるうちに、小林がマウンドに上がるとベンチ裏へ一度下がって、右肘にエルボーガードを着けてくるようになった。
背中から襲ってくるような左サイドハンドへの恐怖心なのか、いずれにしても他の投手に対しては見せないその行動は、小林に精神的なゆとりを与えた。
俺を嫌がっているんだ……。
それから小林は、自分のことをトランプカードの「2」であるとイメージするようになった。「2」というカードは平場での序列は低いが、ある特定のゲームにおいて、エースやキングに勝つことができる。
自分は落合にとって、そういうカードなのだと言い聞かせるようになった。
赤く染まったナゴヤドームのレフトスタンドから前田のテーマが流れていた。相手はとっておきのカードを切って、この試合を決めにきていた。小林は5球と定められた投球練習を終えると、もう一度ロジンバッグを触り、打席の前田へと向き直った。
ところが視線の先に前田はいなかった。カープの切り札はベンチを出たところで指揮官の野村と何やら言葉をかわすと、ヘルメットを脱ぎ、ベンチへ戻っていったのだ。
代わりに打席にやってきたのは右バッターの井生崇光であった。
「バッター、前田に代わりまして、井生─」
前田に替わる代打がコールされた。耳慣れないアナウンスにスタジアムは騒然とした。小林はそのざわめきのなかで立ち尽くしていた。
自分だけの居場所
これまで前田が代打を送られたことなどあっただろうか……。バット一本でこの世界を登りつめてきた孤高の天才が、他者に打席を譲ったことなどあっただろうか。
そうさせたのは、かつてクビに怯え、ひしめく才能の序列に打ちのめされた球速130キロにも満たないサウスポーだった。
その瞬間は小林にとって、ひとつの到達であった。
井生にはツーベースを打たれ、試合には敗れた。だが小林は結果とは別のところで満たされていた。
落合の言葉が胸に響いた。
「相手はお前を嫌がっている─」
小林はかつてレロン・リーを右打席に立たせた永射のように、この世界で自分だけの居場所をつくった。
松坂はもう同じ舞台にはいなかった。遠くメジャーのマウンドに立っていた。
青春の日、怪物とひとつのフレームに収まったサウスポーはまったく別の場所で、彼とは異なる光を放っていた。小林にはそんな自分が、あのころの自分よりも誇らしく思えた。
【前編を読む】「昔な、こういう投手がいたんだ…」全盛期の落合政権を支えた伝説のワンポイントリリーバー“小林正人”が誕生した“意外なきっかけ”