弱い自分を認めて、心の揺れを抑えるために
前田智徳だった。赤ヘルが誇る天才打者は、40歳を迎えても代打の切り札として君臨していた。どうしてもヒットが欲しい。得点を奪いたい。誰もがそう願うとき、彼らは前田に託すのだ。一流のプロも羨望の眼差しを注ぐ前田のスイングは、一振りでスタジアムの空気を変える力があった。
ブルペンの通話機が鳴ったのはそのときだった。小林は名前を呼ばれるまでもなく仕事の時間がきたことを悟っていた。汗を拭ってコップ一杯の水をあおるとブルペンを発った。
薄暗いバックヤードの通路にスパイクの音が冷たく響く。不安が襲ってくる瞬間だ。
ブルペンでマウンドのように。マウンドでブルペンのように……。
心の中でそう唱えながら小林は歓声の中へと飛び出していった。
マウンドに上がると、まずバックスクリーンを仰いだ。イニングと得点差を頭で整理し、レフトからセンター、ライト……味方の誰が、どのポジションを守っているのかを目視した。今、自分が置かれている状況を鳥のような目線から俯瞰するのだ。
それからロジンバッグを触り、ブルペンとまったく同じ所作で投球練習をしながら、相手バッターの心理を思い描く。
小林はいつ、どこの球場においても寸分違わず同じ手順を踏んだ。弱い自分を認めて、心の揺れを抑えるために、自らつくり上げた儀式だった。
腕を下げてワンポイントになったばかりのころ、小林は自分の仕事の重さに負けていた。
バット一本で何億も稼ぎ出すような男たち
ゲームを左右する一つのアウトを、相手の最も警戒すべきバッターから奪わなければならない。金本に阿部、そして前田、他と隔絶したオーラを放つ男たちに気圧され、気負うあまり、フォアボールで歩かせてしまうことが度々あった。
そんな試合の後は決まって、荷物をまとめて二軍の球場へ向かうことになった。
ある日、同じ過ちを繰り返した小林が降板を告げられ、俯きながらマウンドを降りていくと、落合がベンチに座ったままポツリと言った。
「相手はお前を嫌がっているのに、自分で自分を苦しめることはないんじゃないか」
誰に言うともなしに放たれたその言葉は、小林をハッとさせた。
それまで小林は、リーグを代表するような強打者に対しては、自分の限界を超えるようなボールを投げない限り抑えることはできないと考えていた。だから相手が自分のことを嫌がっているなどとは想像したこともなかった。
本当だろうか?
それから小林は勝負の最中、相手がどんな顔をしているのか、観察するようになった。
すると、バット一本で何億も稼ぎ出すような男たちが、130キロに届かない小林のボールに顔を歪ませているのが見えてきた。なかでも、最もそれが伝わってきたのが前田だった。