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 同年11月18日の公判ではさらに衝撃的な事実が明らかになった。11月19日付東朝の記事を見よう。

「参考人として巣鴨監獄から引き出された窃盗囚・山口俊雄は、さる5月から6月に至る間、警視庁に勾留中、濱谷刑事の依頼を受け、被告小守に自白させるため同じ房に入り、『警視庁で自白しても裁判所で否認する道がある』と説き勧め、自白させるとともに、ほぼ小守の犯罪経過について知ることができたと述べた」

 18日発行19日付報知夕刊も「警視庁の抱き込み山口は柿色の獄衣に金縁眼鏡を光らせ、池田裁判長の尋問に答えていわく、『私は別の房にいたのですが、濱谷刑事が、小守は犯人と認めているが証拠があがらないから、何とかして自白させてくれと頼まれ、同房に入ることになったのです』……」と書いた。

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 小守の弁護団の1人・福島一郎弁護士は翌1916年の「中央公論」3月号に載せた「小守壮輔事件の真相と人権蹂躙問題」で「ある者に趣旨を含ませ、偶然同房に監禁されたように装わせて、目指す嫌疑者と起居を共にさせる。そうして甘言と詐術で犯罪の秘密を探り、あるいはこれを陥れようとする。これに使用される者がすなわち『玉』である」と述べている。要するに、警察は自供させるのにスパイまで使ったわけだ。

「銀のキセルで40~50回も所構わずぶちました…」

 弁護団の中心は、「大正事件史」の「島倉事件」にも登場した“人権派弁護士”布施辰治だった。

 白露生編「裁判物語 死刑より無罪へ」に収録された布施の「鈴ヶ森お春殺しの疑獄」によれば、布施弁護士が小守に初めて接見したのはこの年の8月13日。小守は涙ながらにこう語った。

「警視庁では、藤倉刑事が主任になって濱谷、大内、竹田の4人の刑事が代わる代わる、昼夜の差別なく自白しろ自白しろと言って責めるではありませんか」

「今度は、昼間少しも調べないで、夜になると刑事部屋へ引き出されて、4人の刑事が交代でぶつやら蹴るやら責め、折檻……」「『まだ強情を張るか』『図太いやつめ』などと(責め)、その月(5月)の15日などは、両手を首の後ろに回し、手錠をはめて夜通し立たせたままでおき、いつまでも白状するまではそうやっていろと言っては責めるのです」

「銀のキセルで40~50(回)も所構わずぶちましたので、右の手の甲などは腫れ上がってしまったくらいです」

 刑事たちは小守の妻も勾留したと脅しの材料に使った。そして――。

「勾留期間が過ぎますと、また勾留を言い渡されまして、刑事たちの虐待、拷問は一層激しくなりました。こらえにこらえた私もまた生きた動物です。こう夜分寝させずに責められては、気も根も尽きてしまい、もうどうなっても構わないと、忘れもしない5月の30日、現在犯さぬ罪を犯したと、虚偽の自白を致しました次第です。残念です。先生……。助けてください」

 小守の訴えに布施弁護士は弁護を引き受けた。こうした点について「警視庁史 大正編」は「しかし、状況があまりにもそろっているため取り上げられず審理が進められ、彼の有罪を何人も疑う者はなかった」とだけ記している。

 新聞報道で「冤罪事件」と全国的な話題になり、小守を無実とする「恋惨劇砂風呂娘」という舞台劇まで登場したという。