刃物でえぐられたお春…疑われた“恋愛関係のもつれ”
各紙の記事で表現がバラバラなのはお春が切られた体の部位についても同様。東日は「死體(体)解剖に附す」の中見出しで次のように書いた。
凶行は12時(午前0時)前後に行われたものと思われ、最初手ぬぐいなどで咽喉部を締めて殺し、そのうえ、とどめのつもりで念入りにも咽喉部を突き刺した。さらに眼球、腰部まで凶器で切りさいなみ、死骸には炭俵をかぶせ、3尺(約91センチ)の古雨戸を横たえて置いてあった。傷のわりに出血が少ないことから、先に絞殺したものと推定され、確かめるために解剖することが決まった。
他紙はというと――。
「咽喉部、眼球及び下腹部をえぐられて」(東京朝日=東朝)、「絞殺され、さらに咽喉、眼球及び臀部(でんぶ=尻)を刃物をもってえぐられて」(報知)、「鋭利なる凶器で咽喉部を刺し貫いて動脈を切断し、なお右眼及び局部をえぐり」(国民新聞)、「右眼、咽喉及び左内股をえぐられ」(萬朝報)、「咽喉部を強く締めたらしい斑点が残って、のどぼとけの下を鋭利なナイフで刺し通され、陰部の左を3寸(約9センチ)切り下げている」(都新聞)。
最も詳しかったのは読売。「鋭利な刃物で右眼を切り抜き、咽喉部を刺し、さらに局部に刺し入れて左右に3、4寸(約9~13センチ)切り開いてあり……」。こうした手口から、恋愛関係のもつれとみられ、小守が疑われたわけだ。読売の初報は「犯人は九分通(どおり)小森」の脇見出しを付けた。
大正の新風俗だった砂風呂
記事で気になるのは「砂風呂」だろう。首から下に砂をかぶせ、地熱の蒸気で体の老廃物をとる蒸し風呂の一種で、鹿児島県・指宿温泉や大分・別府温泉などが有名。それが大正時代の東京の郊外にもあったとは。
「砂風呂はひところ京濱電車沿線海岸、鈴ヶ森、濱川、立會川一帯にかけて一つの名物となり、『スナブロ旅館〇〇』といった看板表示はしきりに遊客を誘って、この付近発展の基を成したのであるが……」。1939年刊行の「大森区史」はこう書いている。
元々は満州(現中国東北部)、朝鮮のオンドルを応用したものだが、同書によれば、砂風呂の構造は、冬には床を火で暖め、夏は風を通して冷やす。
「四季人体の保健に適し、簡易の自然療養場として相当効果があるといわれていた」
「床を暖める方法としても、最初は火をたいて床に煙を通したが、後にはたどんをいけて床の砂を暖めるなどの方法を用いた」
首なし死体漂着事件が起きた約2カ月後の1909年7月17日付読売には「藪(薮)入りが水入り」という記事が載っている。薮入りとは商店などの奉公人が毎年1月と7月の16日に奉公先から休みをもらって家に帰ったり遊びに行ったりする行事。
「きのうは何しろ91度(華氏)=摂氏約33度=という炎天に芝居、寄席、活動写真でもあるまいと、一度は尻込みした薮入り小僧連も、考え直して京浜電車で大森方面へ押し出した者は無慮(むりょ=ざっと)1万8000人と記された」
記事は、大森海岸付近の料理店などはどこも大入り満員だと記述。次のように続けた。