いまも昔も事件は数限りなくある。しかし、殺人事件の真犯人と名乗り出て無罪判決を受け「自分がやったことは間違いない」と抗議して控訴。有罪の死刑判決にうれし涙を流した被告はほかに例がないだろう。

 逆に、当初有力容疑者とされた男はいったんは犯行を自供。刑事たちの拷問のためと暴露して社会問題に。

 現場は江戸時代の処刑場で歌舞伎の舞台にもなった鈴ヶ森。被害者は砂風呂の経営者の「娘」だが、大正時代の最新の盛り場だった砂風呂とはどんなものだったのか。事件の捜査には当時日本に導入されたばかりの警察犬も動員された。捜査と報道は旧態依然だったが、事件を取り巻く風景には奇妙な新奇が表れていた。

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 当時の新聞記事を適宜現代文に直し、文章を整理。今回も差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。

若い女が目とノドをえぐられて惨殺されているのが発見され…

 昨日(30日)午前6時ごろ、(東京)府下荏原郡大井町字南浜側(鈴ヶ森で、往年首なし死体が漂着した付近)鬼子母神堂前に若い女が目とノドをえぐられて惨殺されているのを、同郡大井町鮫洲、鈴木市郎(58)が発見し、同所駐在所に訴え出た。品川署からは急報に接して三原署長が刑事、医師を従え、警視庁からは川崎警務課長、星加捜索係長が部下を従えて出張。取り調べの結果、被害者は大井町1927、料理店兼砂風呂「濱の家」こと田中伊助(59)の長女はる(26)と判明した。はるは美人で客あしらいが絶妙。これまでその手に乗って搾られた男も少なくない。生来浮気者で4、5名の情夫があった。凶行当夜は2、3日前からの滞在客である福島市の米穀商(40)が土地の芸妓・鯉家しづ江(26)を上げて騒いだ後、帰郷するのを、はるとしづ江は大森停車場まで送り、帰宅して(午後)10時ごろ、就寝したという。

お春殺しの第一報(報知)

 1915年5月1日付東京日日(東日=現毎日)は「鈴ヶ森女殺し 砂風呂の美人娘 眼球と咽喉を抉(えぐ)る」の見出しでこう報じた。往年の首なし死体漂着というのは6年前の1909年5月11日朝、カバンに入った首のない女性の死体が発見された事件のこと。

 鈴ヶ森は江戸時代初期の1651年に処刑場が置かれ、「由井正雪の乱」に関係した丸橋忠弥や八百屋お七、白(平)井権八ら多くの罪人が斬首されたといわれる。鬼子母神堂はその刑場跡地に建てられていた。

鈴ヶ森刑場跡に立つ石塔(「品川区史 通史編 上巻」より)
鈴ヶ森刑場跡の図(「司法制度沿革圖譜」より)

第一報から浮上した容疑者

 事件は新聞各紙に一斉に報道され、第一報から容疑者が浮上していた。複数とした新聞もあるが、一番の容疑者は東日が「有力なる嫌疑者 入墨迄させた情夫」の中見出しで報じた男だった。