――「リモート会議」はいっこく堂さんのYouTubeチャンネルにアップされた動画ですけど、コロナでステージが減ったからこそ動画配信に注力しようという考えは?
いっこく堂 もっと配信したいし、ネタもたくさんストックしてあるんですよ。ただ、なかなか映像制作が追いつきません。1日も早く、生で近くで見てもらえる日が戻ってほしいです。
『笑ってる場合ですよ!』で優勝、ものまねタレントに
――昔のお話もお伺いしたいのですが、実は俳優を目指されていたんですよね。1982年、19歳で横浜放送映画専門学院(現:日本映画大学)に入られて。
いっこく堂 俳優科に入りました。僕の1期後輩がウッチャンナンチャンさんですね。
――在学中に『笑ってる場合ですよ!』(フジテレビ系、1980~1982年)のコーナー「ザ・ぼんちの物まねグランプリ」へ出て、優勝されています。
いっこく堂 俳優になる近道は、ものまねタレントになることだと思ったんです。『笑ってる場合ですよ!』でやったネタは、『俺たちは天使だ!』(日本テレビ系、1979年)の柴田恭兵さんのセリフ「そして、その報酬を俺たちがいただく!」とか(笑)。あとは水谷豊さんの「あらららら~」なんかもやったかな。これ、よくインタビューで話してますけど、田原俊彦さんのモノマネを最初にやったのは自分なんですよ。「僕はね~、ヨッちゃん、ヨッちゃん~」って。
それを観てくれた芸能事務所の社長から「やってみないか」と声が掛かったので、専門学校を退学して、事務所に入りました。学校は6ヶ月しか通ってないです。
高校生で『欽也のそっくりベスト10』出演
――もともと、ものまねは得意だったのですか。
いっこく堂 高校の頃から先生のものまねとか芸能人のものまねをやっていて、学校で人気者でした。高校2年の時にも、TBSでやっていた愛川欽也さんの『欽也のそっくりベスト10』(1981年)に出ました。沖縄予選を勝ち抜いて、チャンピオン大会まで進んでるんですよ。当時の流行歌のなかに、谷村新司さん、前川清さん、トシちゃんのものまねを入れるというネタをやって。
――高校生でキー局の番組に出てしまうと、凄まじい万能感を得てしまいそうですね。
いっこく堂 そうですね。沖縄の高校生が東京に行って、全国放送の番組に出ちゃうわけですから。いずれにせよ、若い時はもう自信満々で怖いもの知らずですよ。『笑ってる場合ですよ!』に出た時も、自己紹介で「演劇学校に通っています」と得意になって答えてました。「演劇学校に通っているんだ。すごいだろう!」みたいな(笑)。あの時のビデオを観たら笑っちゃうし、恥ずかしくて、恥ずかしくて。まぁ、度胸がありましたね。
――『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ系、1980~1986年)も当時人気でしたが、こちらには挑まなかったのですか。